1213年 (建暦3年、12月6日改元 建保元年 癸酉)
 
 

7月7日 丙午 霽
  丑の刻に大地震。今日御所に於いて和歌御会有り。相州・修理の亮・東の平太重胤等
  その座に候す所なり。
 

7月9日 戊申 陰
  御所造営の犯土並びに将軍家御方違え等の事、重ねてその沙汰有り。民部大夫行光奉
  行すと。
 

7月11日 庚戌 天晴
  相州御所(廣元朝臣の第)に参り給い、盃酒を献らる。その間相州申されて云く、去
  る五月、義盛に與する所の富田の三郎、強力人に勝れ、鼎を扛げ石を砕くと。将軍家
  その芸を御覧ぜんが為富田を召す。伊東の七郎具し参る。寝殿西面の簀子に候す。御
  所より大鹿の角二つ(長二尺、方七寸)を出さる。奥州の角なり。仰せに依って、相
  州これを尋ね進せしめ給う。二つの角一度にこれを折る。満座感嘆せざると云うこと
  莫し。また御感の余り、囚人を免ぜらるべきの旨仰せ出さると。相州即ちその趣を金
  窪左衛門の尉行親に下知せしめ給うと。
 

7月20日 己未
  故和田左衛門の尉義盛が妻(横山権の守妹)厚免を蒙る。これ豊受太神宮七社の禰宜
  度會康高が女子なり。夫の謀叛の科に依って所領を召し放たるの上、その身また囚人
  たり。而るに件の領所と謂うは、神宮一円の御厨(遠江の国兼田)たるの間、禰宜等
  子細を申すに依って、所を本宮に返し付けらるるのみならず、剰え恩赦に預かる。こ
  れ御敬神の他に異なるが故なり。
 

7月23日 壬戌
  新造御所の事その沙汰有り。今日御前に於いて指図す。少々改めらるるの所々有り。
  今度は中門を立てらるべきの由と。江右衛門の尉・籐民部大夫等これを奉行す。夕に
  及び大友左衛門の尉京都より帰参す。
 

7月24日 天晴 [明月記]
  未の時ばかりに二條中将過談す(関東より示さるる草子等の事と)。
 

7月25日 天晴 [明月記]
  伝聞、清水寺の法師一堂を建立す。その地清閑寺領に在るの由、彼の寺の法師憤欝し
  相論するの間、清閑寺は山の末寺たるの間、山僧またこれを咎む。清水は本より奈良
  の末寺たるに依って、南京また怒ると。事定めて不善に及ぶか。今夜山法師件の新立
  堂を焼くの由風聞す(後聞、大衆の所為に非ず。或いは云く、清水方より焼くと)。
  後日これを尋ね取り、忠廣或る人の許に注し送ると。