7月7日 丙午 霽
丑の刻に大地震。今日御所に於いて和歌御会有り。相州・修理の亮・東の平太重胤等
その座に候す所なり。
7月9日 戊申 陰
御所造営の犯土並びに将軍家御方違え等の事、重ねてその沙汰有り。民部大夫行光奉
行すと。
7月11日 庚戌 天晴
相州御所(廣元朝臣の第)に参り給い、盃酒を献らる。その間相州申されて云く、去
る五月、義盛に與する所の富田の三郎、強力人に勝れ、鼎を扛げ石を砕くと。将軍家
その芸を御覧ぜんが為富田を召す。伊東の七郎具し参る。寝殿西面の簀子に候す。御
所より大鹿の角二つ(長二尺、方七寸)を出さる。奥州の角なり。仰せに依って、相
州これを尋ね進せしめ給う。二つの角一度にこれを折る。満座感嘆せざると云うこと
莫し。また御感の余り、囚人を免ぜらるべきの旨仰せ出さると。相州即ちその趣を金
窪左衛門の尉行親に下知せしめ給うと。
7月20日 己未
故和田左衛門の尉義盛が妻(横山権の守妹)厚免を蒙る。これ豊受太神宮七社の禰宜
度會康高が女子なり。夫の謀叛の科に依って所領を召し放たるの上、その身また囚人
たり。而るに件の領所と謂うは、神宮一円の御厨(遠江の国兼田)たるの間、禰宜等
子細を申すに依って、所を本宮に返し付けらるるのみならず、剰え恩赦に預かる。こ
れ御敬神の他に異なるが故なり。
7月23日 壬戌
新造御所の事その沙汰有り。今日御前に於いて指図す。少々改めらるるの所々有り。
今度は中門を立てらるべきの由と。江右衛門の尉・籐民部大夫等これを奉行す。夕に
及び大友左衛門の尉京都より帰参す。
7月24日 天晴 [明月記]
未の時ばかりに二條中将過談す(関東より示さるる草子等の事と)。
7月25日 天晴 [明月記]
伝聞、清水寺の法師一堂を建立す。その地清閑寺領に在るの由、彼の寺の法師憤欝し
相論するの間、清閑寺は山の末寺たるの間、山僧またこれを咎む。清水は本より奈良
の末寺たるに依って、南京また怒ると。事定めて不善に及ぶか。今夜山法師件の新立
堂を焼くの由風聞す(後聞、大衆の所為に非ず。或いは云く、清水方より焼くと)。
後日これを尋ね取り、忠廣或る人の許に注し送ると。