1214年 (建保2年 甲戌)
 
 

5月7日 辛未 晴
  園城寺回禄の間、唐院並びに堂舎・僧坊を修造せらるべきの由その沙汰有り。駿河の
  前司惟義朝臣・豊前の守尚友等を以て惣奉行と為す。宇都宮入道蓮生(山王社並びに
  拝殿)、佐々木左衛門の尉廣綱(四足門)、源三左衛門の尉親長(鐘楼)、内藤左衛門
  の尉盛家(預坊)已下、十八人の雑掌を定めらるる所なり。当寺は、源家数代崇重の
  寺なり。所謂豫州刺史禅室(頼義朝臣)、一男快誉阿闍梨を以て智證大師の門徒に加
  え、三男刑部の丞義光を以て新羅明神の氏人と為して以降、鎮守府将軍(義家朝臣)
  殊に当寺の丹祈を恃む。而るに最愛の御息女盲し給う。錦織僧正行観これを加持し奉
  り、忽ち以て復本す。将軍感悦の余り、三度僧正を拝し、吾が子孫永く和尚の門徒に
  帰すべしと。幕下将軍は、両箇の庄園を以て一寺の依怙と為す。また鎌倉中に数宇の
  伽藍を建立し、公顕・公胤の両僧正を以て供養導師と為す。剰え御鬢髪を青龍院に納
  めらる。これ等の芳躅に依って今儀に及ぶか。
 

5月15日 己卯 晴
  寅の刻、月太白(相去ること三尺の所)を犯すの由、司天等これを申す。
 

5月28日 壬辰 霽
  炎旱旬を渉るに依って、鶴岡宮に於いて祈雨の御祈りを始行せらると。