1214年 (建保2年 甲戌)
 
 

4月3日 丁酉 晴
  亥の刻大地震。

[皇帝紀抄]
  今夜亥の時、大地震。
 

4月14日 [皇帝紀抄]
  日吉の祭なり。東浦の長者以下、神膳を供うの間狼藉出来す。神人刃傷に及ぶと。
 

4月15日 [皇帝紀抄]
  山門の衆徒木津東浦に向かう。長者以下の家を焼かしめ、帰路西浦の在家を焼かしむ
  の間、園城寺の衆徒蜂起し合戦すと。

[後鳥羽院宸記]
  酉の刻山崎の辺に於いて顧盻するに北方焼亡有り。京より猶東方なり。推す所大津の
  辺か。(中略)丑の一点ばかりに、法印尊長使者を以て申して云く、昨日十四日日吉
  の祭の間、大津東浦の長者丸と日吉の神人と韓崎に於いて闘諍す。仍って神人多く以
  て長者丸に刃傷せらる。仍って今日申の刻を以て、衆徒等本社公人を遣わし長者丸の
  住宅を焼失せしむ。然る間薗城寺の下法師等、物を取らんが為件の在家に乱入するの
  間、山門所司の下法師と喧嘩出来す。而るに西浦より三井寺の方人等出で来たり、山
  門公人等を追い散らす。剰え大江辺に於いて、三井寺衆徒出合い散々に射る。仍って
  山門宮司法師等東浦に引き帰り、使者を以てこの旨を山門に告ぐ。即ち祭見物の為坂
  下に下る衆徒等百余人来たり、三井寺領西浦を焼失せしめ、新宮の辺に於いて合戦せ
  しむ。即ち三井寺の輩引退しをはんぬ。山門衆徒、三井寺僧坊一両宇を焼失せしむ。
  日頃本寺焼失せしむ。然れども事甚だ以て小事なりと。即ち以て引き帰る処、三井寺
  の悪徒、山門領大津東浦の在家を焼き払う。これに依って山門衆徒、韓崎より又三井
  寺に寄せ責め、北院に打ち入り、中院に入らんと欲す。薗城寺衆徒身命を棄て射るの
  間、山門衆徒大江辺に引退す。三井寺悪徒頗るこれを追う。而るに山門衆徒重ねて五
  百人ばかり追い来たる間、この処に来たり逢い、更に荒手の衆徒中院に打ち入り合戦
  す。時に子の刻ばかりと。且つは寺中房舎を焼き払うの由これを申す。殊に驚き思う。
  然れども只今何様相斗らうべしとも覚えず。但し光親に仰せ、山門・薗城寺へ御教書
  を遣わすべく仰せらる。即ち尊長の使い帰せしめをはんぬ。
 

4月16日 [皇帝紀抄]
  今暁山門の衆徒園城寺の金堂以下の堂塔房舎等を焼かしむ。

[後鳥羽院宸記]
  (前略)これより先座主の書状・同申状等参向す。薗城寺皆悉く以て金堂以下焼失せ
  しむと。(略)今朝辰の刻金堂焼失せしむと。終夜辰の刻に至るまで合戦すと。悪徒
  等百余人金堂に引き籠もり合戦せしむ。その間遂に以て火を懸けをはんぬと。事俄な
  り。先例を勘ぜしむ処、今度五箇度なり。所謂永保・保安・保延・応保等なり。今度
  建保、惣て保字年号に在る時、必ず三井寺焼失せしむと。日来三井寺老僧これを歎く
  と。
 

4月18日 壬午 霽
  御所に於いて、大倉の新御堂供養の事評議を経らる。相州・前の大膳大夫廣元・民部
  大夫行光・大夫屬入道善信・山城判官行村等参候す。供養の導師は、京都の高僧を招
  請せらるべきの由御気色有り。而るに廣元朝臣・行村・善信等、勝長寿院已下の伽藍
  供養の日、三井寺醍醐の碩徳を請せらるるの時、往還の間多く以て万民の煩いなり。
  頗る作善の本意に非ず。今度に於いては、関東止住の僧侶を用いらるの條、一の徳政
  たるべきの由頻りに以てこれを申すと。
 

4月21日 乙酉 晴
  金剛力士像を造立せらる。これ大倉の新御堂惣門に安置せんが為なり。筑後左衛門の
  尉朝重・布施左衛門の尉康定等これを沙汰す。民部大夫行光これを奉行す。
 

4月23日 丁亥 陰
  酉の刻、京都の飛脚参着す。申して云く、去る十五日山門の衆徒園城寺に発向す。金
  堂以下の仏閣・僧坊一宇残らず放火焼失すと。濫觴を尋ねらるるの処、去る十四日は
  日吉の祭なり。而るに大津の神人唐崎の御供を備進す。先規に背き不法の由、寺社共
  以て神人等を責勘するの時、兒濱の相撲清四郎、一族等を率い左方の船に乗り、公人
  に向かい箭を発つ。専当法師忽ち疵を被りをはんぬ。翌朝衆徒彼の張本等を召し取ら
  んが為、所司以下の公人を大津東浦に差し遣わすの間、喧嘩出来す。所司等帰却する
  の処、三井寺の大衆大津の辺に追い到り合戦に及ぶ。これに依って山徒発向せしむ。
  先ず錦織里西浦の在家並びに北院の坊舎を焼く。次いで丑の刻堂塔等を焼くと。近代
  叡岳殊に群動を成す。仍って飛脚東西に馳走し、使節都鄙に往来す。公家の煩い、民
  戸の費え、職としてこれに由るなり。直なる事に非ざるか。抑も園城寺と云うは、天
  武天皇の御宇十六年草創の後、山徒の為焼失する事、すでに五箇度に及ぶ。初めは白
  河院の御宇承保元年甲寅六月九日、山僧彼の寺に発向し、金堂已下悉く焼失す。鳥羽
  院の保安二年辛丑後九月二日、崇徳院の保延六年庚申後五月二十五日、二條院の長寛
  二年甲申六月九日、この四ヶ度皆金堂並びに三院を焼き払うと。
 

4月25日 己丑 晴
  園城寺の長吏僧正公胤使者を進す。当寺焼亡の事を愁い申すと。
 

4月27日 辛卯
  武州三品所望有るの由、内々これを申す。当時の事に非ずと雖も、終に空しかるべか
  らざるの旨御契約と。