1214年 (建保2年 甲戌)
 
 

12月1日 辛卯
  相模の国大山寺の免田五町二段、同国丸嶋郷を引き募るべきの由、仰せ下さると。
 

12月2日 壬辰 霰降る
  京都の使者参着す。去る月二十一日未の刻、高陽院の仙洞失火有り。但し打ち消すの
  間、両宇の外焼けず。同日亥の刻仁和寺の御室(道)御入滅(御年四十九)と。

**[皇帝紀抄]
  法親王道法。後白川院皇子。高野御室と号す。治承三年四月十六日出家(十四)。文
  治元年正月十三日親王宣旨(年二十)。建保二年十一月二十一日入滅(年四十九)。
 

12月4日 甲午 晴
  亥の刻由比浜の辺焼亡す。南風烈しきの間、若宮大路数町に及び、その中間の人家皆
  以て災す。
 

12月10日 庚子 晴
  将軍家永福寺に御出で。これ恒例の一切経会たるに依ってなり。
 

12月12日 壬寅
  諸人官爵の事は、家督の仁、その官仕の労を存知てこれを執り申すべし。直進の款状
  に於いては、奉行人披露に及ぶべからざるの由これを定め仰せらる。廣元朝臣の奉行
  として普くこれを相触ると。
 

12月17日 丁未
  故屋嶋の前の内府の家人美濃の前司則清が子左衛門の尉則種、丹後の国より参上す。
  幕府の官仕を致すべきの由これを望み申す。聊か予儀有りと雖も、右大将軍の御時、
  平家の侍参上せしむるの時は、召し仕うべきの趣、去る建久年中伊賀大夫を誅せらる
  るの後定め置かるるの上は、聴さるべきの旨仰せ出さる。これ歌仙なり。御意に相叶
  うと。
 

12月30日 [皇帝紀抄]
  中宮大進藤原兼高土佐の国に配流せらる。これ去る比殿上に於いて蔵人勘解由次官宗
  宣を打つの科なり。