1216年 (建保4年 丙子)
 
 

6月8日 庚寅 晴
  陳和卿参着す。これ東大寺の大仏を造る宋人なり。彼の寺供養の日、右大将家結縁し
  給うの次いでに、対面を遂げらるべきの由頻りに以て命ぜらるると雖も、和卿云く、
  貴客は多く人命を断たしめ給うの間、罪業これ重し。値遇を奉ることその憚り有りと。
  仍って遂に謁し申さず。而るに当将軍に於いては権化の再誕なり。恩顔を拝せんが為
  参上を企てるの由これを申す。即ち筑後左衛門の尉朝重が宅を点ぜられ、和卿が旅宿
  と為す。先ず廣元朝臣をして子細を聞かしめ給う。
 

6月14日 丙申
  去る比、佐々木左衛門の尉廣綱が使者相具し参上する所の東寺の凶賊已下、強盗・海
  賊の類五十余人の事、今日沙汰有り。奥州に遣わさるべきの由仰せ下さると。これ夷
  嶋に放たんが為、去る四月二十八日廣綱に給う。廣綱一條河原に於いて、廷尉の手よ
  りこれを請け取ると。この東寺の賊徒は、同月十八日秀能(家子四人・郎等二人)こ
  れを相具し、三條坊門東の洞院の家より、大理の正親町西の洞院の門前(路次東の洞
  院より北に行き、一條に至り西に折れ、西の洞院に至り南に行く)に向かう。次いで
  獄舎に禁しむ。見物の者堵の如し。上皇御車を大炊御門東の洞院に立てられ、これを
  覧玉うと。
 

6月15日 丁酉 晴
  和卿を御所に召し御対面有り。和卿三反拝し奉り頗る涕泣す。将軍家その礼を憚り給
  うの処、和卿申して云く、貴客は昔宋朝医王山の長老たり。時に吾その門弟に列すと。
  この事、去る建暦元年六月三日丑の刻、将軍家御寝の際、高僧一人御夢の中に入り、
  この趣を告げ奉る。而るに御夢想の事、敢えて以て御詞に出されざるの処、六箇年に
  及び、忽ち以て和卿が申状に符合す。仍って御信仰の外他事無しと。
 

6月20日 [保暦間記]
  当将軍実朝、権中納言に任ず。
 

6月30日 壬子 陰
  京都の使者参着す。去る二十日将軍家中納言に任ぜしめ給うと。