閏6月11日 癸亥 晴
戌の刻大地震。
閏6月14日 丁卯
廣元朝臣、今月一日大江姓に遷りをはんぬ。勅裁の趣、行光を以てこれを申し入る。
即ち彼の綸旨等御前に写し留めらると。
正四位下行陸奥の守中原朝臣廣元誠惶誠恐謹んで言上す
殊に天恩を蒙り先例に因准し、中原姓を改め大江氏たらんことを請う状
右廣元謹んで案内を検ずるに、子細有るに依って改姓せしむるは、漢家の彝範、本
朝の恒規なり。理氏李に改む、これ則ち伯陽が先。姫姓蒋に遷る、また叔旦が後た
り。田口齋名紀姓に改む。弓削以言大江と為る。和唐の例勝計うべからず。散位従
四位上大江朝臣維光父子の儀有るに依って、すでに継嗣の理に叶う。従四位下行掃
部の頭中原朝臣廣季養育の恩を蒙ると雖も、姓氏の籍を改めんと欲す。就中頃年以
来、中原に成林・梓材の学校これ多く、大江に楽水・詞浪の知淵清少なり。早く本
姓に復し絶氏を継ぐべし。望むらくは天恩先例に因准し、、中原姓を改めしめ、大
江氏たるべきの旨宣旨を下さるれば、いよいよ皇澤の廣被を仰ぎ、将に儒流の再興
を知るべし。廣元誠惶誠恐謹言。
建保四年六月十一日 正四位下行陸奥の守中原朝臣廣元
正二位行中納言藤原朝臣隆衡宣べ、勅を奉る。
請うに依るてえり。
同年後六月一日 大外記兼筑前の守中原朝臣師重(奉る)
閏6月24日 丙子 霽
小河法印忠快六字河臨法を修すべき事、陸奥の守廣元朝臣・信濃の守行光等の奉行と
して、日次已下その沙汰有り。陰陽の少允親職・少輔大夫泰貞等の風記、来七月一日
より同二十九日に至り、三ヶ日を載せ、計用せらるべきの由言上す。而るに法印上中
旬に於いては障りを申す。二十九日に至りては巨難を加うの間、これ陰陽道の誤りな
り。出仕を止むべきの由仰せ下さるに依って、行光子細を両人に相触る。仍って各々
籠居すと。
閏6月29日 辛巳
去る二十日未の刻前の大僧正法務公胤入滅す(年七十二)。往生の瑞有るの由今日風
聞す。これ将軍家御帰依の僧なり。故前の幕下殊に仰せ置くの旨有りと。