1216年 (建保4年 丙子)
 
 

9月10日 庚寅
  鎌倉の住人藤井国貞(籐平と号す)、鶴岡の御膳役と為すべきの由仰せ付けらると。
 

9月18日 丙戌 晴
  相州廣元朝臣を招請し、仰せられて云く、将軍家任大将の事内々思し食し立つと。右
  大将家は、官位の事宣下の度毎にこれを固辞し給う。これ佳運を後胤に及ばしめ給わ
  んが為なり。而るに今御年齢未だ成立に満たず、壮年の御昇進太だ以て早速なり。御
  家人等また京都に候せずして面々顕要の官班に補任すること、頗る過分と謂うべきか。
  尤も歎息する所なり。下官愚昧の短慮を以て、縦え傾け申すと雖も、還ってその誡め
  を蒙るべし。貴殿盍ぞこれを申されざらんやと。廣元朝臣答え申して云く、日来この
  事を思い旦府を悩ますと雖も、右大将家の御時は、事に於いて下問有り。当時その儀
  無きの間独り断腸し、微言を出すに及ばず。今密談に預かること、尤も以て大幸たり。
  凡そ本文の訓ずる所、臣は己を量りて職を受くと。今は先君の遺跡を継ぎ給うばかり
  なり。当代に於いては指せる勲功無し。而るにただ諸国を管領し給うのみならず、中
  納言中将に昇り御う。摂関の御息子に非ずんば、凡人に於いてはこの儀有るべからず。
  爭か嬰害積殃の両篇を遁れ給うか。早く御使いとして、愚存の趣を申し試むべしと。
 

9月20日 己亥 晴
  廣元朝臣御所に参る。相州の中使と称し、御昇進の間の事を諷諫し申す。須く御子孫
  の繁栄を庶幾せしめ給うべくんば、御当官等を辞し、ただ征夷将軍と為し、漸く御高
  年に及び、大将を兼ねしめ給うべきかと。仰せに云く、諫諍の趣尤も甘心すと雖も、
  源氏の正統この時に縮まりをはんぬ。子孫敢えてこれを相継ぐべからず。然れば飽く
  まで官職を帯し、家名を挙げんと欲すと。廣元朝臣重ねて是非を申すこと能わず。即
  ち退出す。この由を相州に申さると。