1217年 (建保5年 丁丑)
 
 

11月8日 壬午 陰
  陸奥の守廣元朝臣不例。目の所労・腫物等計会す。今日七座の如法泰山府君祭を行う
  と。

[愚管抄]
  さて公経の大納言、中風の気ありしかば、實宗公内大臣になりにき。其子にて大将を
  申しけり。院もさもありなんと御約束ありけるを、卿二位がをとこにて大相国入道、
  をととを子にして師経大納言とてあるは、公経の下臈なるを、大将に申けり。(略)
  公経の大納言はあだに心うく思ひて、実朝がゆかりの者に候へば、関東にまかりて命
  ばかりはいきても候へかしなど申てけり。かやうに云けるをそのままに申て、君をを
  どし参らせて、実朝にうたえんと申候など云なして、やがて逆鱗ありて公経大納言を
  ばこめられにけり。
 

11月9日 癸未 霽
  廣元朝臣の病脳危急の間、これを見訪わしめ給わんが為、右京兆彼の亭に渡御す。
 

11月10日 甲申 晴
  陸奥の守獲鱗に依って、存命の為に出家(法名覺阿)す。将軍左衛門の尉朝光をして
  これを訪わしめ給う。

[愚管抄]
  廣元は大膳大夫とて久く有ける。このさきに目をやみて大事にて目はみえず成にけり。
  少しは見るにやなどにて出家してあんなれども、今はもとには似ぬなるべし。其子も
  皆若々として出家してけり。
 

11月17日 辛卯 霽
  奥州の闕は右京兆(義時)兼任せしめ給うべきの由、御吹挙に預かると。