1218年 (建保6年 戊寅)
 
 

10月9日 [皇帝紀抄]
  源実朝内大臣に任ず。左大将元の如し。
 

10月10日 [皇帝紀抄]
  中宮御産。皇子(仲恭)降誕。
 

10月13日 [皇帝紀抄]
  今暁、日来祇園に安じ奉る所の日吉の神輿三基、本社に送り奉らる。衆徒扈従せず。
  社司少々・宮仕等これに従う。

[華頂要略]
  在京三社の神輿、晩鐘に及び山越え本社に帰座しをはんぬ。
 

10月19日 戊午 陰
  佐々木判官廣綱が飛脚参着す。申して云く、去る十日中宮(故中御門関白御女)御産。
  皇子御誕生。九日任大臣等有り。将軍家内大臣に任じ給う。仍って彼の除書を持参す。
  太政大臣(公房)、内大臣(実朝、大将元の如し)、大納言定通、中納言實氏と。同
  十一日また除目、時廣以下少々叙留せしむるなり。この外中宮御産の時鳴弦の輩任官
  すと。
 

10月22日 辛酉
  日吉の神輿入洛以下の事、すでに静謐の由その沙汰有り。日来度々京都に申されをは
  んぬ。去る月二十一日入洛。同二十三日三塔諸堂・日吉の社頭閉門す。また祇園・北
  野以下の末寺・末社、同じく以て閉門す。然りと雖も今月十二日、貫首以下の門徒僧
  綱登山し、衆徒を宥め、山上社頭の門戸を開かしめ、中堂の四社の神輿本社に帰座し
  奉ると。
 

10月26日 乙丑 晴
  京都の使者参る。去る十三日、禅定三品従二位に叙せしめ給うと。
 

10月27日 丙寅 霽
  秋田城の介景盛使節として上洛す。皇子降誕の事を賀し申さるるに依ってなり。今日、
  左兵衛の尉長谷部信連法師、能登の国大屋庄河原田に於いて卒す。これ本は故三條宮
  の侍、近くは関東の御家人なり。長馬新大夫為連が男なり。