1218年 (建保6年 戊寅)
 
 

11月5日 癸酉
  大夫判官廣綱京都より書状を進上す。これ去る月十五日、日吉社御幸の時供奉するの
  間、刃傷せしむる専当童有り。廣綱これを射留めをはんぬ。彼の賞に依って、同二十
  一日叙留せしむる所なり。朝恩の至り、すでに無双の面目たるの由と。将軍家また殊
  に御感有り。近江の国松伏別府を以て、その勧賞に加えらると。
 

11月11日 [愚管抄]
  九條殿の子に良輔左大臣、日本国古今たぐひなき学生にて、左大臣一の上にて朝の重
  宝かなと思たりき。世にもがさと云病をこりたりしを、大事にわづらひうせ給にけり。

[皇帝紀抄]
  左大臣従一位藤原良輔薨ず(三十四)。
 

11月13日 [北條九代記]
  右大将家後室、遠江の守時政女、従二位に叙す。
 

11月25日 癸巳 晴
  景盛京都より帰参す。去る十日嵯峨栖霞寺の釈迦・阿弥陀両堂焼失す。本尊は取り出
  し奉る。同十一日八條左大臣(良輔)薨じ給う(年三十四と)。

**[武家年代記]
  十一月、嵯峨釈迦堂火。
 

11月27日 乙未
  東の平太重胤は無双の近仕なり。その男胤行また父に相並び、夙夜君に在り。而るに
  去る比下総の国海上庄に下向す。久しく帰参せざるの間、将軍家御書を遣わさる。こ
  れ早く参上せしむべきの由なり。この次いでを以て御詠を給う。
   こひしともおもはていはヽひさかたのあまてる神もそらにしるらん