1221年 (承久3年 辛巳)
 
 

5月15日 戊戌 [百錬抄]
  未の刻、一院より官兵を遣わし、大夫の尉光季を討たる。これ陸奥の守義時朝臣勅命
  に背き、天下の政を乱す。追討せらるべきの由議有り。縁者たるに依って、先ず光季
  を誅せらる。光季高辻北京極西角の宅に住む。午の刻合戦。宿館に放火し自害を企つ。
  余焔数町に及び天下物騒なり。土御門院・新院・宮々同時に高陽院殿に渡御す。即ち
  義時朝臣追討の宣旨五畿七道に下さる。

[承久記]
  去程に、能登守は御所に、軍の次第を申上ければ、十善の君も御尋有けり。秀康奏申
  けるは、「軍の為体、詞も不及きぶくこそ候つれ。一千騎の打手の御使と光季が三十
  一騎の勢と、未の始より申の終に及ぶまでに戦候つるに、御方三十五騎討れ候ぬ。手
  負は数もしらず。あなたには恥ある郎等少々討れ、或光季父子自害にて候」と奏しけ
  れば、(略)去程に、右大将公経・子息中納言實氏召籠らせさせ給ふ。其謂は、関東
  に心かはす御疑とぞ承る。さて、伊賀判官下人、十五日戌刻に、鎌倉へとて下にけり。
  平判官も宿所に帰り、以前の詞、少も違はず、文委く書て、同戌刻、兄の駿河守の許
  へぞ下しける。又秀康宣旨を蒙て、按察中納言光親卿ぞ書下されける。院御下部押松
  にぞ下給。押松は十六日の寅の刻に、宣旨を帯して下りけり。
   院宣を被るに称へらく、故右大臣薨去の後、家人等偏に聖断を仰ぐべきの由、申せ
   しむ。仍って義時朝臣、奉行の仁たるべきかの由、思し食すのところに、三代将軍
   の遺跡を管領するに人なしと称して、種々申す旨あるの間、勲功の職を優ぜらるる
   によりて、摂政の子息に迭へられをはんぬ。然共、幼齢にして未識の間、彼の朝臣、
   性を野心に稟け、権を朝威に借れり。これを論ずるに、政道、豈然るべけんや。仍
   って自今以後、義時朝臣の奉行を停止し、併ながら叡襟に決すべし。もしこの御定
   に拘らずして、猶反逆の企ある者は、早くその命を殞すべし。殊功の輩においては、
   褒美を加へらるべきなり。宜しくこの旨を存ぜしむべし。てえれば、院宣かくのご
   とし。これを悉くせよ。以て下す。
     承久三年五月十五日      按察使光親奉る

[小松美一郎氏所蔵]
**官宣旨案
  右弁官下す 五幾内諸国(東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海・太宰府)
   早く陸奥の守平義時朝臣の身を追討せしめ、院の廰に参り諸国庄園守護人・地頭等
   の裁断を蒙るべき事
  右、内大臣宣べ、勅を奉る。近合関東の成敗と称し、天下の政務を乱す。纔に将軍の
  名を帯すと雖も、猶以て幼稚の齢に在り、然る間彼の義時朝臣偏に仮言の詞を教命し、
  恣に都鄙に於いて裁断を致す。剰え己の威を燿かすこと皇憲を忘るる如し。政道を論
  ずるに謀反と謂うべし。早く五幾七道の諸国に下知し、彼の朝臣を追討せしめ、兼ね
  てまた諸国庄園守護人・地頭等、言上を経るべきの旨有らば、各々院の廰に参り、宜
  しく上奏を経て、状の聴断に随うべし。国宰並びに領家等に仰せ、事を綸フツに寄せ、
  更に濫行を致すこと勿れ。縡これ厳密なり。違越せざりてえり。諸国承知し、宣に依
  ってこれを行え。
    承久三年五月十五日       大史三善朝臣
  大弁藤原朝臣
 

5月18日 辛丑 晴
  寅の刻太白星螢惑星を犯す(二尺の所と)。
 

5月19日 壬寅
  午の刻、大夫の尉光季去る十五日の飛脚関東に下着す。申して云く、この間院中に官
  軍を召聚めらる。仍って前の民部少輔親廣入道、昨日勅喚に応ず。光季は右幕下(公
  経)の告げを聞くに依って障りを申すの間、勅勘を蒙るべきの形勢有りと。未の刻、
  右大将家司主税の頭長衡去る十五日の京都の飛脚下着す。申して云く、昨日(十四日)、
  幕下並びに黄門(實氏)、二位法印尊長に仰せ、弓場殿に召し籠めらる。十五日午の
  刻、官軍を遣わし伊賀廷尉を誅せらる。則ち按察使光親卿に勅し、右京兆追討の宣旨
  を五幾七道に下さるるの由と。関東分宣旨の御使は、今日同じく到着すと。仍って相
  尋ねるの処、葛西谷山里殿の辺よりこれを召し出す。押松丸(秀康所従)と称すと。
  所持の宣旨並びに大監物光行の副状、同じく東士の交名註進状等を取り、二品亭(御
  堂御所と号す)に於いて披閲す。また同時廷尉胤義(義村弟)の私書状、駿河の前司
  義村の許に到着す。これ勅定に応じ右京兆を誅すべし。勲功の賞に於いては請いに依
  るべきの由、仰せ下さるるの趣これを載す。義村返報に能わず。彼の使者を追い返し、
  件の書状を持ち、右京兆の許に行き向かいて云く、義村弟の叛逆に同心せず。御方に
  於いて無二の忠を抽んずべきの由と。
  その後陰陽道親職・泰貞・宣賢・晴吉等を招き、午の刻(初めの飛脚到来の時なり)
  を以て卜筮有り。関東太平に属くべきの由、一同これを占う。相州・武州・前の大官
  令禅門・前の武州已下群集す。二品家人等を簾下に招き、秋田城の介景盛を以て示し
  含めて曰く、皆心を一にして奉るべし。これ最期の詞なり。故右大将軍朝敵を征罰し、
  関東を草創してより以降、官位と云い俸禄と云い、その恩既に山岳より高く、溟渤よ
  り深し。報謝の志これ浅からんか。而るに今逆臣の讒に依って、非義の綸旨を下さる。
  名を惜しむの族は、早く秀康・胤義等を討ち取り、三代将軍の遺跡を全うすべし。但
  し院中に参らんと欲する者は、只今申し切るべしてえり。群参の士悉く命に応じ、且
  つは涙に溺れ返報を申すこと委しからず。ただ命を軽んじ酬恩を思う。寔にこれ忠臣
  国の危うきを見るとは、この謂われか。武家天気に背くの起こりは、舞女亀菊の申状
  に依って、摂津の国長江・倉橋両庄の地頭職を停止すべきの由、二箇度院宣を下さる
  るの処、右京兆諾し申さず。これ幕下将軍の時、勲功の賞に募り定補するの輩、指せ
  る雑怠無くして改め難きの由これを申す。仍って逆鱗甚だしきが故なりと。
  晩鐘の程、右京兆の舘に於いて、相州・武州・前の大膳大夫入道・駿河の前司・城の
  介入道等評議を凝らす。意見区々なり。所詮関を固め足柄・箱根両方の道路に相待つ
  べきの由と。大官令覺阿云く、群議の趣、一旦然るべし。但し東士一揆せずんば、関
  を守り日を渉るの條、還って敗北の因たるべきか。運を天道に任せ、早く軍兵を京都
  に発遣せらるべしてえり。右京兆両議を以て二品に申すの処、二品云く、上洛せずん
  ば、更に官軍を敗り難からんか。安保刑部の丞實光以下武蔵の国の勢を相待ち、速や
  かに参洛すべしてえり。これに就いて上洛せしめんが為、今日遠江・駿河・伊豆・甲
  斐・相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・信濃・上野・下野・陸奥・出羽等国々の
  飛脚、京兆奉書に、一族等を相具すべきの由、家々の長に仰す所なり。その状の書き
  様、
   京都より坂東を襲うべきの由その聞こえ有るの間、相模の守・武蔵の守御勢を相具
   し打ち立つ所なり。式部の丞を以て北国に差し向ける。この趣早く一家の人々に相
   触れ、向かうべきなりてえり。

[六代勝事記]
  二品禅尼有勢の武士を庭中に召あつめてかたらひていはく、各々心を一にして聞べし。
  是は最後の詞也。故大将家、伊豫入道・八幡太郎の跡をつぎて東夷をはぐくむに、田
  園身をやすくし官位心にまかする事、重恩すでに須彌よりも高し。報謝の恩大海より
  もふかゝるべし。朝威をかたじけなくする事は、将軍四代の今に露塵あやまる事なき
  を、不忠の讒臣等天のせめをはからず、非義の武芸にほこりて追討の宣旨を申くだせ
  り。(略)恩をしり名をおしまむ人、秀康・胤義をめしとりて、家を失はず名をたて
  ん事をおもはずやと。是をきくともがらなみだにむせびて返事を申にくはしからず。
  ただかるき命をおもき恩にかへん事ふた心なし。

[承久記]
  押松は十九日の申の刻に、鎌倉にこそ着にけれ。伊賀判官の下人も、同酉の時に着に
  けり。二位殿に参て申ければ、被仰けるは、「尼、加様に若より物思ふ者、よもあら
  じ。鎌倉中に触よ」とぞ被仰ける。さてこそ谷七郷に、騒がぬ所はなかりけり。此由
  聞て、二位殿へ参人々、武田・小笠原・小山左衛門・宇都宮入道・中間五郎・武蔵前
  司義氏、此人々参給ふ。平判官の下人も、同酉の時許に、駿河守の許へぞ付にける。
  (略)駿河守「関々のきびしければ、返事はせぬぞ。平九郎には、さ聞つと計云へよ」
  とて、弟の使を上らる。駿河守は文巻持て、大夫殿へ参り、申されけるは、「平判官
  胤義が、今年三年京住して下たる状、御覧ぜよ。一年、和田左衛門が謀反の時、和殿
  に義村が中媒したりとて、余所の誹謗は有しかども、若より「互に変改あらじ」と約
  束申て候へば、角も申候なり。院下部押松、和殿討んずる宣旨を持て下りけるが、鎌
  倉入に放て候と申つるぞ。此より奥の大名、高家は、披露有つる者ならば、和殿と義
  村とを敵と思はぬ者はよもあらじ。奥の人共に披露せぬ先に、鎌倉中にて押松尋て御
  覧ぜよ、大夫殿」とぞ申されける。「可然」とて、鬼王の如なる使六人を、六手に分
  て尋らる。壱岐の入道の宿所より、押松尋出して、天にも付ず地にも付ず、閻魔王の
  使の如して参りたり。

[島津家文書]
**北條義時書状案
  三郎兵衛殿むさしのかみと京上の事、承りをはんぬ。神妙に候、恐々。
    五月十九日           義時在判

[百錬抄]
  内大臣参陣す。固関警固の事を行わる。天慶将門の時例に准ぜらると。
 

5月20日 癸卯
  世上無為の懇祈を抽んずべきの旨、荘厳房律師並びに鶴岡別当法印定豪等に示し付く。
  また三万六千神祭を行う。民部大夫康俊・左衛門の尉清定これを奉行す。
 

5月21日 甲辰
  午の刻、一條大夫頼氏京都より下着し(去る十六日出京と)、二品亭に到る。宰相中
  将(信能)已下多く以て院中に候すと雖も、独り旧好を忘れず馳参すと。二品感悦し
  ながら京都の形勢を尋ねる。頼氏委曲に述ぶ。去る月より洛中静かならず。人恐怖を
  成すの処、十四日晩景親廣入道を召す。また右幕下父子を召し籠めらる。十五日朝官
  軍競い起こり、高陽院殿の門々を警衛す。凡そ一千七百余騎と。内蔵の頭清範これを
  着到す。次いで範茂卿御使として新院を迎え奉らる。則ち御幸す(御布衣)。彼の卿
  と同車なり。次いで土御門院(御烏帽子・直衣、彼の卿二品と御同車)・六條・冷泉
  等の宮、各々密々高陽院殿に入御す。同日大夫の尉惟信・山城の守廣綱・廷尉胤義・
  高重等勅定を奉り、八百余騎の官軍を引率し、光季の高辻京極の家を襲い合戦す。縡
  火急にして、光季並びに息男寿王冠者・光綱自害し、宿廬に放火す。南風烈しく吹き、
  余炎数十町(姉小路東洞院)に延び至る。
  申の刻高陽院殿に行幸す。歩儀、摂政供奉す。近衛将一両人・公卿少々参る。賢所同
  じく渡し奉る。同時に火六角西洞院に起こり閑院皇居に及ばんと欲するの間、避御せ
  しむ所なり(御譲位以後初度)。また高陽院殿に於いて御修法を行わる。仁和寺宮道
  助並びに良快僧正以下これを奉仕す。寝殿御所を以て壇所と為すと。
  今日、天下の重事等重ねて評議す。住所を離れ官軍に向かい、左右無く上洛すること
  如何。思惟有るべきかの由異議有るが故なり。前の大膳大夫入道云く、上洛定まるの
  後、日を隔てるに依って、すでにまた異議出来す。武蔵の国の軍勢を待たしむの條、
  猶僻案なり。日時を累ねるに於いては、武蔵の国の衆漸く廻案すと雖も、定めて変心
  有るべきなり。ただ今夜中、武州一身と雖も鞭を揚げらるれば、東士悉く雲の龍に従
  う如くなるべしてえり。京兆殊に甘心す。但し大夫屬入道善信宿老として、この程老
  病危急の間籠居す。二品これを招き示し合す。善信云く、関東の安否この時至極しを
  はんぬ。計議を廻らさんと擬すは、凡慮の覃ぶ所に非ず。而るに軍兵を京都に発遣す
  る事、尤も庶幾するの処、日数を経るの條、頗る懈緩と謂うべし。大将軍一人は、先
  ず進発すべきかてえり。京兆云く、両議一揆す。何ぞ冥助に非らざらんか。早く進発
  すべきの由、武州に示し付く。仍って武州今夜門出し、藤澤左衛門の尉清近の稲瀬河
  の宅に宿すと。
 

5月22日 乙巳 陰 小雨常に灑ぐ
  卯の刻武州京都に進発す。従軍十八騎なり。所謂子息武蔵の太郎時氏・弟陸奥の六郎
  有時、また北條の五郎・尾藤左近将監(平出の彌三郎・綿貫の次郎三郎相従う)・関
  判官代・平三郎兵衛の尉・南條の七郎・安東籐内左衛門の尉・伊具の太郎・岡村次郎
  兵衛の尉・佐久満の太郎・葛山の小次郎・勅使河原の小次郎・横溝の五郎・安藤左近
  将監・塩河中務の丞・内嶋の三郎等なり。京兆この輩を招き、皆兵具を與う。その後
  相州・前の武州・駿河の前司・同次郎已下進発しをはんぬ。式部の丞は北陸の大将軍
  として首途すと。
 

5月23日 丙午
  右京兆・前の大膳大夫入道覺阿・駿河入道行阿・大夫屬入道善信・隠岐入道行西・壱
  岐入道・筑後入道・民部大夫行盛・加藤大夫判官入道覺蓮・小山左衛門の尉朝政・宇
  都宮入道蓮生・隠岐左衛門入道行阿・善隼人入道善清・大井入道・中條右衛門の尉家
  長已下の宿老は上洛に及ばず。各々鎌倉に留まる。且つは祈祷を廻らし、且つは勢を
  催し遣わすと。
 

5月25日 戊申
  去る二十二日より今暁に至るまで、然るべき東士に於いては悉く以て上洛す。京兆に
  於いてその交名を記し置く所なり。各々東海・東山・北陸の三道に分ち上洛すべきの
  由これを定め下す。軍士惣て十九万騎なり。
  東海道の大将軍(従軍十万余騎と)
   相州 武州 同太郎 武蔵の前司義氏 駿河の前司義村 千葉の介胤綱
  東山道の大将軍(従軍五万余騎と)
   武田の五郎信光 小笠原の次郎長清 小山左衛門の尉朝長 結城左衛門の尉朝光
  北陸道の大将軍(従軍四万余騎と)
   式部の丞朝時  結城の七郎朝廣  佐々木の太郎信實
  今日黄昏に及び、武州駿河の国に至る。爰に安東兵衛の尉忠家、この間右京兆の命に
  背く事有り、当国に籠居す。武州の上洛を聞き、駕を廻らし来たり加わる。武州云く、
  客は勘発人なり。同道然るべからざるかと。忠家云く、儀を存ずるは無為の時の事な
  り。命を軍旅に棄てんが為進発する上は、鎌倉に申せられざると雖も、何事か有らん
  かてえり。遂に以て扈従すと。
 

5月26日 己酉
  世上無為の祈祷を始行す。鶴岡に於いて仁王百講(関東始めの例)有り。講師は安楽
  坊法橋重慶、読師は民部卿律師隆修。請僧百口は、当宮並びに勝長寿院・永福寺・大
  慈寺等の供僧なり。また若君の属星祭・右京兆の祈り百日の天冑地府祭を始行す。康
  俊・清定等これを奉行す。
  武州は手越の駅に着す。春日刑部三郎貞幸、信濃の国よりこの所に来会す。武田・小
  笠原に相具すべきの旨、その命有りと雖も、契約有りと称し武州に属くと。今日晩景
  秀澄美濃の国(去る十九日官軍を遣わし、関の方々を固めらるる所なり)より飛脚を
  京都に進す。申して云く、関東の士官軍を敗らんが為、すでに上洛せんと欲す。その
  勢雲霞の如し。仏神の冥助に非ずんば、天災を攘い難からんかと。これに依って院中
  徐々に周章し、三院御立願に及ぶ。五社御幸有るべきの由と。
 

5月27日 庚戌
  勅使押松丸を返し進す。進士判官代隆邦宣旨の請文を書き、則ち押松に付けをはんぬ。
  今日重ねて祈請有り。如意寺法印圓意・弁法印定豪・大蔵卿法橋良信・信濃法橋道禅
  等これを奉仕す。各々供料を遣わすと。
 

5月28日 辛亥 雨降る
  武州遠江の国天龍河に到る。連日洪水の際、舟船の煩い有るべきの処、この河頗る水
  無く、皆徒により渉りをはんぬと。
 

5月29日 壬子 雨降る
  佐々木兵衛太郎信實(兵衛の尉盛綱法師の子)北陸道の大将軍(朝時)に相従い上洛
  せしむ。爰に阿波宰相中将(信成卿、乱逆の張本と)の家人深匂の八郎家賢(腰瀧口
  季賢の後胤)伴類六十余人を引卒し、越後の国加地庄願文山に籠もるの間、信實これ
  を追討しをはんぬ。関東の士官軍を敗るの最初なり。相州・武州等大軍を卒し上洛の
  事、今日叡聞に達すと。院中上下魂を鎖すと。
 

5月30日 癸丑
  相州遠江の国橋本の駅に着す。夜に入り勇士十余輩、潛かに相州の大軍に相交り、先
  陣に進出す。これを怪しみ、内田の四郎をして尋ね問わしむの処、仙洞に候するの下
  総の前司盛綱の近親筑井の太郎高重上洛せしむと。仍ってこれを誅伏すと。

[承久記(古活字本)]
  海道の先陣相模守、遠江の橋本に着けるに、「十九騎連れたつ勢の高志山へ入ぬ」と
  申ければ、(略)内田四郎・同六郎・新野右馬允、是を始として六十余騎追懸たり。
  内田の者共、谷を隔て扣へつつ、使者を以ていはせければ、「下総守のやからに三浦
  筑井四郎太郎と申者にて候。坂東に用事の有て下候つるが、都に事出来たると承て、
  大勢にかいまじりてや上候とて通り候つるに、見付られ進らせ候けり。運の窮る所力
  及ばず。但一人もきたなき死はすまじき物を。各々相近によれよ」と申されければ、
  内田の者共六十余騎にて押寄たり。