1221年 (承久3年 辛巳)
 
 

6月1日 甲寅
  押松帰洛し、高陽院殿に参る。関東の子細を尋ね聞こし食さる。押松下着の日より上
  洛の路次に至るまで、心神を痛めしむ。官軍を傾けんが為参洛するの東士幾千万を知
  らざるの由これを申す。院中の諸人仰天の外他に無しと。

[承久記]
  鎌倉を出て五日と云し酉の時には都へ上り、高陽院殿の大庭にぞ着にけれ。十善の君
  を始まいらせて、大臣・公卿・納言・宰相・女房・諸人集り、「押松が義時が首持て
  参らん、御覧ぜよ」とて、御簾を挑げ、門前市を成。去程に押松申は、権大夫が「十
  善の君に申せ」と候つるは、「是や此数の染物巻八丈・白銀金・夷が隠羽・貢馬上馬、
  一年に二度三度進上仕る。面目に候らん。何を不足に思食されて、加様の宣旨は下候
  哉らん。武士の召候なれば、西国の武士に召合られて、軍をさせて、御簾の隙より御
  覧ぜよ。猶、軍にあかせ玉はぬものならば、己が様なる足早からん脚力を下しらべ。
  義時も十万騎にて馳上り、手の際軍仕て、見参に入らんと申せ」と申しければ、上下
  万人是を聞、皆伏目にこそ成にけれ。
 

6月3日 丙辰
  関東の大将軍遠江の国府に着くの由、飛脚昨日入洛するの間、公卿僉議有り。防戦せ
  んが為官軍を方々に差し遣わさる。仍って今暁各々進発す。所謂、北陸道は宮崎左衛
  門の尉定範・糟屋右衛門の尉有久・仁科の次郎盛朝、東山道大井戸の渡は大夫判官惟
  信・筑後左衛門の尉有長・糟屋四郎左衛門の尉久季、鵜沼の渡は美濃目代帯刀左衛門
  の尉・神地蔵人入道、池瀬は朝日判官代・関左衛門の尉・土岐判官代・関田の太郎、
  摩免戸は能登の守秀康・山城の守廣経・下総の前司盛綱・平判官胤義・佐々木判官高
  重・鏡右衛門の尉久綱・安藝宗内左衛門の尉、食渡は山田左衛門の尉・臼井の太郎入
  道、洲俣は河内判官秀澄・山田の次郎重忠、市脇は伊勢の守光員等なり。
 

6月5日 戊午 晴
  辰の刻、関東の両将尾張の国一宮の辺に着す。合戦の間の事評議有り。この所より方
  々の道に相分つ。鵜沼の渡は毛利蔵人大夫入道西阿、池瀬は武蔵の前司義氏、板橋は
  狩野の介入道、摩免戸は武州・駿河の前司義村以下数輩(侍に候す輩なり)、洲俣は
  相州・城の介入道・豊嶋・足立・江戸・河越の輩なり。晩に及び、山道の討手武田の
  五郎・同小五郎・小笠原の次郎(父子八人)・小山新左衛門の尉等大井戸を渡り、官
  軍と挑戦す。大将軍惟信已下逃亡すと。有長・久季は疵を被る。秀康・廣綱・胤義以
  下、皆警固の地を棄て帰洛すと。
 

6月6日 己未
  今暁、武蔵の太郎時氏・陸奥の六郎有時、少輔判官代佐房・阿曽沼の次郎親綱・小鹿
  嶋橘左衛門の尉公成・波多野中務次郎経朝・善右衛門太郎康知・安保刑部の丞實光等
  を相具し、摩免戸を渡る。官軍矢を発つに及ばず敗走す。山田の次郎重忠独り残留し、
  伊佐の三郎行政と相戦い、これまた逐電す。鏡右衛門の尉久綱この所に留まり、姓名
  を旗面に註し高岸に立て置き、少輔判官代と合戦す。久綱云く、臆病秀康に相副うに
  依って、所存の如き合戦を遂げず。後悔千万すと。遂に自殺す。旗の銘を見て悲涙を
  拭うと。武蔵の太郎筵田に到る。官軍三十許輩相構えて合戦す。楯を負い精兵を撰び
  東士を射ること数返に及ぶ。武蔵の太郎、善右衛門太郎・中山の次郎等をしてこれを
  射返せしむ。波多野の五郎義重先登に進むの処、矢石右目に中たり、心神違乱すと雖
  も、則ち答箭を射ると。官軍逃亡す。凡そ杭瀬河・洲俣・市脇等の要害悉く以て敗れ
  をはんぬ。

[百錬抄]
  右大臣参入す。追討の御祈り十一社奉幣使を定め申さる。

[出羽市河文書]
**北条義時袖判御教書
     (義時花押)
  五月三十日ゐのときに申されたる御ふみ、けふ六月六日さるのときにたうらい、五月
  つこもりの日、かんはらをせめおとして、おなしきさるのときに、みやさきをヽいお
  とされたるよし、きこしめし候ぬ、しきふのせうをあひまたす、さきさまにさやうに
  たヽかひして、かたきをおひおとしたるよし申されたる、返々しむへうに候、又にし
  なの二らうむかひたりとも、三百きはかりのせいにて候なれは、なにことかは候へき、
  又しきふとのも、いまはおひつかせ給ぬらん、ほくろくたうのてにむかひたるよし、
  きこひ候は、みやさきのさゑもん・にしなの二郎・かさやのあわいヽさゑもん・くわ
  さのゐんのとうさゑもん、又しなのけんし一人候ときヽ候、いかにもして一人ももら
  さすうたるへく候也、山なとへおひいれられて候はヽ、山ふみをもせさせて、めしと
  らるへく候也、さやうにおひおとすほとならは、ゑ中・かヽ・のと・ゑちせんのもの
  なとも、しかしなから御かたへこそまいらむする事なれは、大凡山のあんないをもし
  りて候らん、たしかにやまふみをして、めしとらるへく候、おひおとしたれはとて、
  うちすてヽなましひにて京へいそきのほる事あるへからす、又ちうをぬきいてヽ、さ
  やうに御けにんをもすヽめて、たヽかひして、かたきををいおとされたる事、返々し
  むへうにきこしめし候、しんたかおとヽの四らうさゑもん六郎なと、あひともにちう
  をつくしたるよし、返々しむへうに候、又おのおの御けにんにも、さやうにこヽろに
  いれて、たヽかひをもし、山ふみをもして、かたきをも、うちたらんものにおきては、
  けんしやうあるへく候なり、このよしをふれらるへく候、あなかしこ、
    六月六日            藤原兼佐(奉る)
  いちかはの六郎刑部殿(御返事)
 

6月7日 庚申
  相州・武州以下東山・東海道の軍士、野上・垂井の両宿に陣し、合戦の僉議有り。義
  村計り申して云く、北陸道の大将軍上洛以前に、軍兵を東路に遣わすべきか。然れば
  勢多は相州、手山は城の介入道・武田の五郎等、宇治は武州、芋洗は毛利入道、淀渡
  は結城左衛門の尉並びに義村向かうべきの由と。武州承諾す。各々異儀に及ばず。駿
  河の次郎泰村父義村に従い、淀の手に向かうべきと雖も、武州に相具せんが為彼の陣
  に加わると。

[百錬抄]
  追討御祈り十一社奉幣なり。
 

6月8日 辛酉
  寅の刻、秀康・有長疵を被りながら帰洛せしむ。去る六日摩免戸の合戦に於いて、官
  軍敗北の由奏聞す。諸人顔色を変ず。凡そ御所中騒動し、女房並びに上下北面・医陰
  の輩等東西に奔り迷う。忠信・定通・有雅・範茂已下公卿の侍臣、宇治・勢多・田原
  等に向かうべしと。次いで叡山に御幸有り。女御また出御す。女房等悉く以て乗車す。
  上皇(御直衣・腹巻、日照笠を差せしめ御う)・土御門院(御布衣)・新院(同)・六
  條親王・冷泉親王(已上御直衣)皆御騎馬なり。先ず専長法印押小路河原の家(これ
  を泉房と号す)に入御す。この所に於いて、諸方防戦の事評定有りと。黄昏に及び山
  上に幸す。内府・定輔・親兼・信成・隆親・尊長(各々甲冑)等御共に候す。主上ま
  た密々行幸す(女房輿を用いらる)。職事資頼朝臣・具實朝臣(以上直垂)。劔璽は
  御輿中に在り。大納言の局(大相国の女)相副え奉ると。主上・上皇は西坂本梶井御
  所に入御す。両親王は十禅師に宿せしめ御うと。右幕下公経父子、囚人の如くこれを
  召し具せらると。
  今日、式部の丞朝時・結城の七郎朝光・佐々木の太郎信實等、越後の国小国源兵衛三
  郎頼継・金津蔵人資義・小野蔵人時信以下の輩を相催し上洛するの処、越中の国般若
  野庄に於いて宣旨状到来す。佐々木の次郎實秀(冑を着けず)軍陣に立ちこれを読む。
  士卒勅旨に応じ、右京兆を誅すべきの由なり。その後官軍に相逢う。宮崎左衛門の尉
  ・糟屋乙石左衛門の尉・仁科の次郎・友野右馬の允等、各々林・石黒以下在国の類を
  相具し合戦す。結城の七郎殊に武功有り。乙石左衛門の尉討ち取られをはんぬ。官軍
  雌伏し、加賀の国住人林の次郎・石黒の三郎降人として、李部並びに朝廣等の陣に来
  向す。また武州野上に逗留す。
  同日戌の刻、鎌倉右京兆の舘の釜殿に雷落し、疋夫一人これが為侵されをはんぬ。亭
  主頗る怖畏し、大官令禅門を招きこれを示し合わす。武州等の上洛は、朝廷を傾け奉
  らんが為なり。而るに今この怪有り。もしこれ運命の縮むべき端か。てえれば、禅門
  云く、君臣の運命、皆天地の所掌なり。倩々今度の次第を案ずるに、その是非宜しく
  天道の決断を仰ぐべし。全く怖畏の限りに非ず。就中この事は、関東に於いて佳例た
  るか。文治五年故幕下将軍籐泰衡を征するの時、奥州の軍陣に於いて雷落をはんぬ。
  先規明らかと雖も、故に卜筮有るべしてえり。親職・泰貞・宣賢等、最吉の由同心に
  これを占うと。

[百錬抄]
  一院・土御門院・新院・六條冷泉両宮御登山。洛中の貴賤東西に馳走す。
 

6月9日 壬戌
  上皇坂本に御坐す。偏に山門を恃み思し食すの由仰せらる。衆徒の微力を以て、東士
  の強威を防ぎ難きの旨奏聞す。仍って還御有るべきや否やその沙汰有るの処、右京兆
  誅せらるべきの由浮説有り。人々一旦喜悦の思いを成すと。また右幕下父子斬罪せら
  れんと欲す。然れども儀有り、その事を止めらると。

[百錬抄]
  三院・両宮還御すと。
 

6月10日 癸亥
  主上・三院梶井御所より高陽院殿に還御す。白河辺に於いて各々御乗車。土御門院と
  冷泉宮と御同車、新院と六條宮と御同車と。今日、右幕下父子勅勘を免ぜらると。
 

6月11日 甲子
  諏方大祝盛重去る八日の状、今日鎌倉に到来す。世上無為の懇祈を廻らすの由巻数を
  献る。また子息太郎信重小笠原に相具し上洛すと。
 

6月12日 乙丑 陰
  重ねて官軍を諸方に遣わさる。所謂三穂崎は美濃堅者観厳一千騎。勢多は山田の次郎
  ・伊藤左衛門の尉並びに山僧、三千余騎を引卒す。食渡は前の民部少輔入道・能登の
  守・下総の前司・平判官二千余騎。鵜飼瀬は長瀬判官代・河内判官一千余騎。宇治は
  二位兵衛の督・甲斐宰相中将・右衛門権の佐(朝俊)・伊勢の前司(清定)・山城の
  守・佐々木判官・小松法印二万余騎。真木嶋は足立源三左衛門の尉、芋洗は一條宰相
  中将・二位法印、淀渡は坊門大納言等なり。
  今日、相州・武州野路の辺に休息す。幸嶋の四郎行時(或いは下河邊と号す)、小山
  新左衛門の尉朝長以下の親類に相具し上洛するの処、志を武州に運すこと年尚し。所
  々に於いて傷死せしむの條、日者の本懐と称し、一門の衆に離れ、先立ち杜山より野
  路の駅に馳せ付き武州の陣に加わる。時に酒宴の砌なり。武州行時を見て、感悦の余
  り盃を閣き、先ず座上に請ず。次いで彼の盃を行時に與え、太郎時氏をして乗馬(黒)
  を引かしむ。剰え具す所の郎従及び小舎童に至るまで、幕の際に召し餉等を與うと。
  芳情の儀、観る者いよいよ勇を成すと。
 

6月13日 丙寅 雨降る
  相州以下、野路より方々の道に相分つ。相州は先ず勢多に向かうの処、橋の中二箇間
  を曳き、楯を並べ鏃を調え、官軍並びに叡岳の悪僧列立し東士を招く。仍って挑戦威
  を争うと。酉の刻、毛利入道・駿河の前司淀手上等に向かう。武州は栗子山に陣す。
  武蔵の前司義氏・駿河の次郎泰村武州に相触れず、宇治橋の辺に向かい合戦を始む。
  官軍矢石を発つこと雨脚の如し。東士多く以てこれに中たり、平等院に籠もる。夜半
  に及び、前の武州兼仗六郎保信等を以て、武州の陣に示し送りて云く、暁天を相待ち、
  合戦を遂ぐべき由存ずるの処、壮士等先登に進むの余り、すでに箭合戦を始め、殺戮
  せらるる者太だ多してえり。武州驚きながら、甚雨を凌ぎ宇治に向かいをはんぬ。こ
  の間また合戦し、東士二十四人忽ち疵を被る。官軍頻りに勝ちに乗る。武州、尾藤左
  近将監景綱を以て、橋上の戦いを止むべきの由加制するの間、各々退去す。武州は平
  等院に休息すと。

[百錬抄]
  宇治より関東の武士洛都に乱入せんと欲すの間、官兵相防ぎ合戦すと。
 

6月14日 丁卯 霽 雷鳴数声
  武州河を越え相戦わずんば、官軍を敗り難きの由相計り、芝田の橘六兼義を召し、河
  の浅瀬を尋ね究むべきの旨を示す。兼義南條の七郎を伴い、眞木嶋に馳せ下る。昨日
  の雨に依って、緑水の流れ濁り、白浪漲り落ち、淵底を窺い難きと雖も、水練として
  遂にその浅深を知る。頃之馳せ帰り、渡らしむるの條相違有るべからざるの由申しを
  はんぬ。卯の三刻に及び、兼義・春日刑部三郎貞幸等、命を受け宇治河伏見津の瀬を
  渡らんが為馳せ行く。佐々木四郎左衛門の尉信綱・中山の次郎重継・安東兵衛の尉忠
  家等、兼義の後に従い、河俣に副い下行す。信綱・貞幸云く、爰か瀬は爰か瀬はてえ
  り。兼義遂に返答すること能わず。数町を経るの後鞭を揚げ進む。信綱・重継・貞幸
  ・忠家同じく渡る。官軍これを見て、同時に矢を発つ。兼義・貞幸の乗馬、河中に於
  いて各々箭に中たり漂水す。貞幸水底に沈みすでに終命せんと欲す。心中諏方明神を
  祈念し、腰刀を取り甲の表帯・小具足を切り、良久しくして僅かに浅瀬に浮び出る。
  水練の郎従等の為救われをはんぬ。武州これを見て、手づから数箇所の灸を加うの間、
  正念に住す。相従う所の子息・郎従等已上十七人水に没す。その後軍兵多く水面に轡
  を並べるの処、流れ急にして、未だ戦わざるに十の二三は死す。所謂関左衛門入道・
  幸嶋の四郎・伊佐大進太郎・善右衛門太郎・長江の四郎・安保刑部の丞以下九十六
  人、従軍八百余騎なり。信綱独り中嶋の古柳の蔭に在り。後進の勇士入水するに依っ
  て、渡らんと欲するに思慮を失い、子息太郎重綱を武州の陣に遣わして云く、勢を賜
  わり向岸に着かしむべしてえり。武州勇士を加うべきの由を示し、餉を重綱に與う。
  これを賜わり訖わり、また父の所に帰る。卯の刻、この中嶋に着き勢を相待つの程と
  雖も、重綱(甲冑を着けず、馬に騎らず、裸にて帷計りを頭に纏う)往還の間刻を移
  すに依って、日出の期に及ぶなり。
  武州太郎時氏を招きて云く、吾が衆敗北せんと擬す。今に於いては大将軍死すべきの
  時なり。汝速やかに河を渡り軍陣に入り、命を捨つべしてえり。時氏佐久満の太郎・
  南條の七郎已下六騎を相具し進み渡る。武州言語を発せず、ただ前後を見るの間、駿
  河の次郎泰村(主従五騎)已下数輩また渡る。爰に官軍東士の入水を見て、勝ちに乗
  るの気色有り。武州駕を進め河を越えんと擬す。貞幸騎の轡を取ると雖も、更に拘留
  するに所無し。貞幸謀りて云く、甲冑を着て渡るの者、大略没死せざると云うこと莫
  し。早く御甲を解かしめ給うべしてえり。田の畝に下り立ち甲を解くの処、その乗馬
  を引き隠すの間、意ならず留まりをはんぬ。信綱は、先登の号有りと雖も、中嶋に於
  いて時刻を経るの間、着岸せしむ事は、武蔵の太郎と同時なり。大綱を排すは、信綱
  太刀を取りこれを切り棄つ。兼義の乗馬箭に中たり斃ると雖も、水練たるに依って無
  為着岸す。時氏旗を揚げ矢石を発つ。東士・官軍挑戦し勝負を争う。東士すでに九十
  八人疵を被ると。武州・武蔵の前司等筏に乗り河を渡る。尾藤左近将監、平出の彌三
  郎をして民屋を壊し取り筏を造らしむと。
  武州着岸の後、武蔵・相模の輩殊に攻戦す。大将軍二位兵衛の督有雅卿・宰相中将範
  茂卿・安達源三左衛門の尉親長等、防戦の術を失い遁げ去る。筑後六郎左衛門の尉知
  尚・佐々木太郎左衛門の尉・野次郎左衛門の尉成時等、右衛門の佐朝俊を以て大将軍
  と為し、宇治河の辺に残留し相戦い、皆悉く亡命す。この外官兵弓箭を忘れ敗走す。
  武蔵の太郎彼の後を追いこれを征伐せしむ。剰え宇治河北辺の民屋に放火するの間、
  自ずと逃げ籠もるの族、烟に咽び度を失うと。
  武州壮士十六騎を相具し、潜かに深草河原に陣す。右幕下の使い(長衡)この所に来
  たりて云く、何所までに渡ること有るか見奉るべきの由、幕下の命有りと。武州云く、
  明旦入洛すべし。最前に案内を啓すべしてえり。使者の名を問うに、長衡名謁りをは
  んぬ。則ち南條の七郎を以て長衡に付け、幕下の許に遣わす。その亭を警固すべきの
  旨示し付くと。毛利入道・駿河の前司淀・芋洗等の要害を破り、高畠の辺に宿す。武
  州使者を立てるに依って、両人深草に到ると。相州勢多橋に於いて官兵と合戦す。夜
  陰に及び、親廣・秀康・盛綱・胤義軍陣を棄て帰洛し、三條河原に宿す。親廣は関寺
  の辺に零落すと。官軍佐々木の彌太郎判官高重已下この処に誅せらると。

[六代勝事記]
  まきのしまをわたすに、逃るに道をうしなひてしぬるものおほし。もとより兵の名を
  得たる惟信・有範・有俊以下、やどごとに火をかけしほのほのひかりけぶりの色、た
  かきもいやしきも行ゑをしらず。ただこよひばかりとまどひあへる世中、秦項の災も
  是にはしかじとぞ見えし。

[百錬抄]
  申の刻ばかり、関東の武士宇治路を打ち破り入洛す。橋を引くと雖も、勇敢の輩身命
  を棄て真木嶋に渡り、兵粮を奪い取り、勝ちに乗ると。
 

6月15日 戊辰 陰
  寅の刻、秀康・胤義等四辻殿に参る。宇治・勢多両所の合戦に於いて官軍敗北す。道
  路を塞ぐの上、すでに入洛せんと欲す。縦え万々の事有りと雖も、更に一死を免がれ
  難きの由同音に奏聞す。仍って大夫史国宗宿禰を以て勅使と為し、武州の陣に遣わせ
  らる。両院(土御門・新院)・両親王、賀茂・貴舟等の片土に遁れしめ御う。辰の刻、
  国宗院宣を捧げ、樋口河原に於いて武州に相逢い子細を述ぶ。武州院宣を拝すべしと
  称し下馬しをはんぬ。共の勇士五千余輩有り。この中院宣を読むべきの者候すかの由、
  岡村次郎兵衛の尉を以て相尋ねるの処、勅使河原の小三郎云く、武蔵の国住人藤田の
  三郎は文博士の者なりと。これを召し出す。藤田院宣を読む。その趣、今度の合戦は
  叡慮より起こらず、謀臣等の申し行う所なり。今に於いては、申請に任せ宣下せらる
  べし。洛中に於いて狼唳に及ぶべからざるの由、東士に下知すべしてえり。その後ま
  た御随身頼武を以て、院中に於いて武士の参入を停められをはんぬの旨、重ねて仰せ
  下さると。
  盛綱・秀康逃亡す。胤義は東寺の門内に引き籠もるの処、東士次第に入洛し、胤義と
  三浦佐原の輩と合戦数反し、両方の郎従多く以て戦死すと。巳の刻、相州・武州の勢
  六波羅に着す。申の刻、胤義父子西山木嶋に於いて自殺す。廷尉の郎従その首を取り、
  太秦の宅に持ち向かう。義村これを尋ね取り、武州の舘に送ると。秉燭の程、官兵の
  宿廬各々放火し、数箇所焼亡す。運命今夜に限るの由、都人皆迷惑す。存に非ず亡に
  非ず、各々東西に馳走す。秦項の災に異ならず。東士畿内・畿外に充満し、戦場を遁
  れる所の歩兵を求め出し斬首す。白刃を拭うに暇有らず。人馬の死傷衢を塞ぎ行歩安
  からず。郷里に全き室無く、耕所に残る苗無し。武勇を好む西面・北面忽ち亡び、辺
  功を立つ近寵臣悉く虜えらる。悲しむべし、八十五代の澆季に当たり、皇家絶えんと
  欲す。
  今日関東の祈祷等結願なり。属星祭の祭文は、民部大夫行盛草・清書を相兼ぬ。この
  期に及び、官兵敗績せしむ。仏力神力の未だ地に落ちざるを仰ぐべし。

[六代勝事記]
  百万のいくさ入洛して畿内畿外にみちみてり。戦場をのがれたるものをあなぐりもと
  めて、首をきる事白刃をのごふにひまあらず。人馬ちまたをふさぎて行歩たやすから
  ず。郷里にはまたき寶なく、耕所にはのこれる苗なし。西面北面の朝恩にほこりて武
  勇をこのむ。たちまちにほろび、近習寵臣の辺功をたつる。ことごとくとらへられぬ。
 

6月16日 己巳
  相州・武州の両刺史六波羅の舘に移住す。右京兆の爪牙耳目の如く、治国の要計を廻
  らし、武家の安全を求む。凡そ今度の合戦の間、残党の疑い多しと雖も、刑は軽きに
  従うべきの由和談を経て、四面の網三面を解く。これ世の讃する所なり。佐々木中務
  入道経蓮は、院中に侯し合戦の計を廻らす。官兵敗走の後、鷲尾に在るの由風聞する
  の間、これを聞き武州使者を遣わして云く、相構えて命を捨つべからず。関東に申し
  厚免すべしてえり。経蓮云く、これ自殺を勧める使いなり。蓋ぞこれを恥ざらんやて
  えり。刀を取り身肉手足を破る。未だ終命せざるの間、輿に扶け乗せ六波羅に向かう。
  武州その躰を見て、示し送るの趣に違い自殺すること、本意に背くの由これを称す。
  時に経蓮聊か両眼を見開き、快喚し詞を発せず。遂に以て卒去すと。また謀叛の衆所
  々に於いて生虜るの中、清水寺住侶敬月法師、指せる勇士に非ずと雖も、範茂卿に従
  い宇治に向かうの間宥め難し。一首の詠歌を武州に献る。仍って感懐の余り、死罪を
  減じ遠流に処すべきの由、長沼の五郎宗政に下知すと。
   勅なれば身をばすててきものヽふのやぞうち河のせにはたゝねど
  今日、武州飛脚を関東に遣わす。合戦無為に属くの由を申すに依ってなり。

[百錬抄]
  武士入洛し、すでに六波羅に着す。京中追捕す。以ての外狼藉なり。凡そ霊社霊仏と
  雖も、これを恐れずこれを憚らず。今日大夫史国宗を以て御使と為し、狼藉を鎮むべ
  きの由、武士に仰せられ、六條河原に行き向かう。義時朝臣已下本官に還任す。追討
  の宣旨を召し返すべきの由、仰せ下さると。右中弁資経朝臣殿下の御使として泰時の
  許に向かう。平等院経蔵・宝蔵の内宝物、併しながら武士追捕し取る。累代の御物・
  摂録の宝物等、ただこの御倉に在り。一々沙汰し返せらる。兼ねてまた法成寺同追捕
  の宝蔵御物等、一々沙汰し返せしむべし。

**[北條九代記]
  泰時(武蔵守)六波羅北方たり。時房(相模守)六波羅南方たり。これより京都北南
  両六波羅創立す。
 

6月17日 庚午
  六波羅に於いて、勇士等勲功の事、その浅深を糺明す。而るに渡河の先登の事、信綱
  と兼義とこれを相論す。両国司の前に於いて対決に及ぶ。信綱申して云く、先登の詮
  と謂うは、敵陣に入る時の事、馬を河に打ち入るの時、芝田聊か先立つと雖も、乗馬
  箭に中たり、着岸の刻見え来たらずと。兼義云く、佐々木越河の事、偏に兼義の引導
  に依ってなり。形迹の案内を知らざるして、爭か先登に進まんやてえり。決し難きの
  間春日刑部三郎貞幸に尋ぬ。貞幸起請を以て事の由を述ぶ。その状に云く、
   去る十四日宇治川越えらるる間の事
   岸より落す時は芝田先立つといへども、佐々木すヽむ。仍って芝田は佐々木が馬の
   弓手の方にあり。貞幸同じく妻手のかたに引ゑたり。佐々木が馬は、両人が馬の頭
   よりも鞭だけばかり先づ。中山次郎重綱また馬を貞幸が馬にならぶ。但しこれは中
   嶋よりあなたの事なり。貞幸水底に入て後の事は存知ず候。(以下これを略す)
  武州この状を一見するの後、猶傍らの人に問うの処、報ずる所また以て符合するの間、
  兼義を招き誘いて云く、諍論然るべからず。ただ貞幸等の口状の融を以て、関東に註
  進せんと欲す。然れば賞に於いては、定めて所存の如くたるべきかてえり。兼義云く、
  縦え万賞に預からずと雖も、この論に至りては承伏すべからずと。
 

6月18日 辛未
  武蔵の太郎秘蔵の馬一両疋、宇治に於いて箭に中たる。その鏃身中に入り、今にこれ
  を出さず。なまじいに斃れずと雖も、太だ辛苦す。諸人に訪ると雖も、治術に所無き
  の由を称す。生虜の西面の中友野右馬の允遠久と云う者有り。飼馬の芸古の伯楽と謂
  うべし。この事を聞き、治すべきの由と。武州頻りに入興し、則ち彼の馬を引き送る
  の処、鏃を抜き療養し、忽ち愈を得るなり。珍事の由世以て謳歌すと。
  今日使者を関東に遣わす。これ今度合戦の間、官兵を討ち、また疵を被り、官兵の為
  討ち取らるる者、彼是数多有り。関判官代・後藤左衛門の尉・金持兵衛の尉等これを
  尋ね究め、その交名を注し武州に送る。仍って勲功の賞に行われんが為遣わす所なり。
  中太彌三郎飛脚たりと。
  六月十四日宇治合戦に敵を討つ人々
   秩父の平五郎(一人、名を知らず)   小笠原の次郎(一人、弦袋を付く)
   佐々木又太郎右衛門の尉(一人、弦袋) 同奈良の五郎(一人)
   横溝の五郎(一人)          佐竹の六郎(二人、内一人手討ち)
   押垂三郎兵衛の尉(一人、郎等これを討つ)    富田の小太郎(一人)
   戸村の三郎(三人、内生虜一人、一人勅使大夫入道)浦太郎(三人)
   島津三郎兵衛の尉(七人、内僧一人、生虜二人)  若狭兵衛入道の手(三人)
   宮木の小四郎(一人、野次郎左衛門の尉)     大井左衛門三郎(一人)
   品川の小三郎(二人)         品川の四郎太郎(一人)
   於呂左衛門四郎(二人、内生虜一人)  於呂の五郎(四人、内一人生取り)
   葛山の太郎(一人、弦袋)       並木彌次郎兵衛の尉(一人、法師)
   駿河の次郎(四人、内奴加澤左近将監一人、小河兵衛の尉一人これを討つ)
   伊具の六郎(二人、内深草の六郎一人、染屋刑部七郎一人これを討つと)
   天野右馬太郎(五人、内二人手打ち)  黒田三郎入道(一人、郎等これを打つ)
   佐竹別当の手(二人)         梶原平左衛門太郎の手(一人)
   四宮但馬の允(二人)         香河の小五郎(二人、大刀長伏輪)
   豊嶋の九郎小太郎(二人、郎等これを打つ)    信乃の彌太郎(一人)
   塩尻の彌三郎(出雲の国小三郎と)   庄の四郎(一人、生虜り)
   庄の五郎(一人、生取り)       潮田の四郎太郎(一人)
   蒼海の平太(二人、但し首は宇治に梟すと)    大貫の三郎(一人)
   大和太郎左衛門の尉(一人手打ち、二人郎等これを討つ) 大和の籐内(一人)
   山田の八郎(二人、手打ち)     山田の次郎(二人、手打ち)
   河越の三郎(一人、手打ち)     小野寺左衛門入道(五人、内一人手打ち)
   渋谷の三郎(二人手討ち、一人萩野の三郎)
   渋谷権の守太郎(二人、内一人手打ち、一人生取り)
   渋谷の又太郎(一人、手打ち、出雲の国神西庄司太郎)  懸左近将監(二人)
   神保の與三(一人)         多胡の宗内(一人)
   椎名の彌次郎            小平左近将監(二人、内一人生取り)
   善右衛門四郎(三人、手討ち)    渋谷の六郎(一人、郎等これを討つ)
    已上九十八人(この内、衛府五人、生虜り七人) 判官代日記に定むと。
   長布の施四郎(三人、内一人萩野の太郎等、一人佐々木判官親者、一人生取り)
   猪俣右衛門の尉(一人)       佐貫右衛門十郎(四人)
   金子太倉の太郎(二人) 金子右近将監(二人)  金子の三郎(一人)
   須久留兵衛次郎(一人) 岩田の七郎(一人)   豊田の四郎(一人)
   豊田の五郎(四人)   佐貫の七郎(一人)   小代右馬次郎(二人)
   河村の四郎(一人)   於呂の小五郎(一人、西面の手)
   松田の小次郎(二人、内一人甲斐中将の侍刑部の丞と)
   松田の九郎(二人、内一人西面平内、一人熊野法印親者)
   小越の四郎(一人)   秩父の次郎太郎(一人、上臈と)
   瓶尻の小次郎(一人)  藤田兵衛の尉(一人、手打ち、佐々木判官手の者と)
   内嶋の三郎(二人)   小越の四郎(二人)  大井の太郎(二人)
   小越右馬太郎(二人)  中村の四郎(二人)  河原田の四郎三郎(一人)
   人見の八郎(一人)   木内の次郎(一人)  風早の四郎(一人)
   山城左衛門の尉(十六人)児玉刑部四郎(一人) 
   河村の太郎(三人、郎等これを討つ)      同三郎(一人、手打ち)
   同五郎(一人、手打ち、西面)         甘糟の小次郎(一人)
   勅使河原五郎兵衛の尉(一人、郎等これを打つ) 勅使河原の四郎(一人手討ち)
   太田の五郎(一人、手打ち)          香河の三郎(一人、手討ち)
   河匂の小太郎(一人手討ち) 波多野の彌籐次(一人、手討ち、宇治に梟すと)
   小澤太郎入道(二人、宇治に梟すと)      佐田の太郎(一人、手討ち)
   沼田の小太郎(一人、手討ち、熊野法印子)   糟屋の三郎(一人、手討ち)
   同四郎(一人、手打ち) 小代の與次郎(一人)
    已上八十四人、金持兵衛の尉日記と
   佐加良の三郎(一人、渡部彌次郎兵衛の尉、北面と。直垂綾)
   長布の施三郎(一人)         二宮の三郎(二人、名を知らず)
   曽我の八郎(一人、宰相中将格勤の者) 曽我の八郎三郎(一人、同格勤の者)
   泉の八郎(二人)           泉の次郎(三人)
   安東兵衛の尉の手伊豫玉井の四郎(一人)
   肥前房(一人、山口兵衛の尉小舎人童生取り)権の守三郎(一人、甲斐中将中間と)
   工藤太三郎(一人、佐々木判官親者)  荒巻の籐太(一人、三郎法師生取り)
   清久左衛門の尉(二人) 曽我の太郎(四人)   成田の五郎(一人)
   成田の籐次(一人)   奈良兵衛の尉(一人、山法師) 別府の次郎太郎(一人)
   荏原の六郎太郎(一人、下総の前司郎等) 荏原の七郎(一人、郎等これを討つ)
   岩原の源八(一人)           弓削の平次五郎(一人)
   河平の次郎の手(四人、二人熊野法師、一人弦袋) 宇津の幾十郎(一人)
   佐貫右衛門の尉十郎(一人、弦袋)    宿屋の太郎の手(五人)
   土屋三郎兵衛の尉(一人)        興津左衛門三郎(二人、手打ち)
    十五日已後、京都に於いてこれを記す。
   植野の次郎(一人)   角田の太郎(一人、平九郎判官郎等美六美八)
   波多野中務次郎(一人、熊野法印、長伏輪太刀)
   内藤右近将監(二人、熊野法師郎等)   内記左近将監(二人、熊野法師郎等)
   荻窪の六郎(二人、内一人肥前の国佐山の十郎)
   西條四郎の手(一人、郎等手討ち)    天野の平内次郎(一人)
   古郡の四郎(一人、瑠璃王左衛門の尉西面生取り) 
   山田蔵人(三人、生取り、下総の前司郎等)
   仁田の次郎太郎(五人、内一人生取り、宮分刑部の丞)
   金持兵衛の尉(五人、二位法印家人)   豊嶋の十郎(一人、金を付くと)
   中村小五郎兵衛の尉(一人、生取り、中七左近)  荏原の小太郎(一人)
   佐々木四郎右衛門の尉(一人、手討ち、佐々木太郎左衛門の尉)
    以上七十三人 併せて二百五十五人
  六月十三日・十四日宇治橋合戦手負いの人々
  十三日
   富部五郎兵衛の尉  同町野兵衛の尉  松田の小次郎   松田の三郎
   同五郎       同平三郎     同右衛門太郎   波多野中務次郎
   同五郎       牧右近太郎    同中次      小津の太郎入道
   同籐次太郎     椎名の小次郎   横田右馬の允   阿曽沼の六郎太郎
   香河の小五郎    豊田の平太    同五郎      保土原の三郎
   今泉彌三郎兵衛の尉 同五郎      同須河の次郎   同五郎
   同提の五郎     世山の三郎    河田の七郎    甘糟の小太郎
   藤田新兵衛の尉   須賀の彌太郎   安保右馬の允   目黒の小太郎
   井田の四郎太郎   沼田の小太郎   沼田の佐籐太
    已上三十五人
  十四日
   小代の小次郎    行田兵衛の尉   古庄の太郎    曽我の太郎
   源内八郎      女景の太郎    宇津幾の平太   同十郎
   山口兵衛太郎    須黒兵衛太郎   加世左近将監
   同彌次郎(死にをはんぬ)       仙波の太郎    同左衛門の尉
   相模国分の八郎   興津左衛門三郎  同四郎      同六郎
   同紀太       同八郎太郎    同十郎      河村の籐四郎
   岩原の源八     吉香左衛門次郎  大内の十郎    同彌次郎
   源七刑部次郎    同三郎太郎    小嶋の三郎    同六郎
   同七郎       矢部の源次郎   内記の四郎    屋代兵衛の尉
   葛山の小次郎    波賀の小太郎   古谷の八郎    同飯積の三郎
   同十郎       岡村次郎兵衛の尉 岩手の小四郎   同五郎
   同與一       河原の次郎    皆河の太郎    大江兵衛の尉
   同四郎       井田の四郎    岩田の八郎五郎  大倉の小次郎
   高井の小太郎    同小次郎     長澤の又太郎   佐加江の四郎(大事)
   同五郎(大事)   矢田の八郎    妻良の五郎    西郷の三郎
   新開の彌次郎             布施左衛門三郎(渡河に症を被る)
   奈良左近将監(同上)         宇治の次郎(同上、又云く、波多野)
   佐貫右衛門六郎(同上)        肥前房(同上、安東の手)
   松野左近将監  志水右近将監(同上) 平河刑部太郎   同又太郎
   蛭河刑部三郎    同三郎太郎    佐野の七郎入道  渋谷の平太三郎
   渋谷権の守六郎   同七郎      品河の四郎    阿曽沼の次郎
   高橋の九郎     塩谷左衛門の尉  同太郎      同六郎
   塩谷の彌四郎    同奥太      塩谷の小三郎   同五郎
   富田の太郎     同五郎      玉井の小四郎   俣野の小太郎
   河平の三郎     寺尾の又太郎   鷲の四郎太郎   天野の平内太郎
   安東の籐内     廣原の仲次    魚沼工藤の三郎  熊井の小太郎
   鎌田の平三
    已上九十七人 併せて百三十二人
   神保の太郎     高井の五郎    江田兵衛の尉   江田の五郎太郎
   高井の彌太郎    同室の三郎    屋嶋の次郎    小串の五郎
   青根の三郎
  六月十四日宇治橋合戦の間、越河懸けの時御方の人々死日記
   布施右衛門次郎   懸佐藤の四郎   高野の小太郎   武蔵女影の四郎
   内嶋の七郎     荏原の六郎    荏原の彌三郎   太田の六郎
   今泉の七郎     片穂刑部四郎   飯田左近将監   志村の彌三郎
   同又太郎      善右衛門太郎   安保刑部の丞   同四郎
   同左衛門次郎    同八郎      塩屋民部大夫   関左衛門入道
   金子大倉の六郎   春日刑部三郎太郎 同小三郎     渋谷の四郎
   渋谷権の守五郎   潮田の六郎    志水の六郎    於呂の七郎
   若狭次郎兵衛入道  綱島左衛門次郎  大舎人の助    飯沼の三郎
   同子息一人     大河戸の小四郎  幸嶋の四郎(また下河邊と号す)
   梶原平左衛門次郎  成田兵衛の尉   同五郎太郎    玉井兵衛太郎
   佐貫右衛門五郎   同八郎      同兵衛太郎
   長江の余一(討れる) 長江の小四郎(同上)       相馬の三郎
   同太郎(討れる)  同次郎      小田切奥太    小野寺中務の丞
   石河三郎(討れる) 古庄の次郎(同上)麻続の六郎    中村の九郎
   左近将監      同三郎      鮫嶋の小四郎
   新開兵衛の尉(橋に於いて討れる)   大山の彌籐次(同上)
   山内の彌五郎    千竈の四郎    同新太郎     金子の小太郎
   籐次(横溝親類)五郎         寺尾左衛門の尉(橋上に於いて討れる)
   庄の三郎(敵の為討ち取らると)    大河戸の六郎(同上)
   佐貫の太郎次郎(疵を被り河に於いて死す) 同次郎太郎  佐野の八郎
   品河の次郎     同四郎三郎    同六郎太郎    信乃大塩の次郎
   浦の四郎      江戸の四郎三郎  安東平次兵衛の尉 安東籐内左衛門の尉
   町野の次郎(十三日橋上に於いて死す) 仙波の彌次郎(疵を被り三箇日以後死す)
   新太郎       桜井の次郎(浦の太郎手の者)
   平次太郎(寺尾四郎兵衛の尉手の者)  高井の三郎    嶋名刑部三郎
   屋嶋の六郎     神保刑部少輔   道智の三郎太郎  麻彌屋の四郎
   同次郎
  武蔵の守殿御手
   平六        少輔房      五郎殿      石河の平五
   佐伯左近将監    片穂刑部四郎   飯田左近将監   足洗の籐内
   中三入道      後平の四郎
 

6月19日 壬申
  六波羅に於いて錦織判官代を生虜る。これ弓場・相撲の達者、壮力人に越える勇士な
  り。院中に参るの処、官兵敗北度を失い逃亡すと雖も、遁れ難き事を思い忽然と出来
  す。彼に対揚すべきの東士を撰び、佐野の太郎・同次郎入道・同三郎入道等を示し付
  く所なり。而るに猶相争い、錦織輙く雌伏せず。佐野の郎従来たり加わりこれを獲る
  と。今日、武蔵の太郎時氏、去る十四日宇治河を渡す時相従う者六人を招き、盃を勧
  め贈物に及ぶと。

[百錬抄]
  一院四辻殿に御幸す。武士囲繞し奉る。新院大炊殿に還御す。両宮本所に渡御すと。
  今日、秀康已下の徒党、早く追討せしむべきの由これを宣下せらる。
 

6月20日 癸酉
  上皇高陽院より四辻殿に御幸す。土御門院・新院・六條宮・冷泉宮、皆本所に還御す。
  主上ばかりこの御所に御座すと。晩に及び、美濃源氏神地蔵人頼経入道・同伴類十余
  人、貴船の辺に於いて本間兵衛の尉これを生虜る。また多田蔵人基綱梟首すと。

[百錬抄]
  天皇閑院に還御す。武士の狼藉停止すべきの由、尋ね沙汰せしむと。今日、北陸道の
  手式部の丞知時入洛すと。
 

6月22日 [肥前龍造寺文書]
**北條泰時禁制案
  肥前国佐嘉御領内末吉名にて、狼藉有るべからざるなり。もし制法に拘わらざるの輩
  は、交名を注進せしむべきの状件の如し。
    承久三年六月二十二日      武蔵守(泰時御判)
 

6月23日 丙子
  去る十六日の相州・武州の飛脚、今夜丑の刻鎌倉に到着す。合戦無為・天下静謐の次
  第、委細の書状を披らき、公私の喜悦喩えを取るに物無し。即時卿相雲客の罪名已下
  洛中の事定め有り。大官令禅門文治元年の沙汰を勘じ、先規を相計り事書を整う。進
  士判官代隆邦執筆しこれを註すと。
 

6月24日 丁丑
  相州・武州等申請の旨に任せ、合戦張本の公卿等六波羅に渡せらる。按察卿光親(武
  田の五郎信光これを預かる)・中納言宗行卿(小山新左衛門の尉朝長これを預かる)
  ・入道二位兵衛の督有雅卿(小笠原の次郎長清これを預かる)・宰相中将範茂卿(式
  部の丞朝時これを預かる)。今日寅の刻、安東新左衛門の尉光成昨日の事書を帯し、
  関東を出て上洛す。京都に於いて沙汰有るべき條々、右京兆直に光成に示し含むと。

[皇帝紀抄]
  光親・宗行・範茂等の卿・入道有雅卿、各々武士に渡さる。
 

6月25日 戊寅
  合戦の張本重ねて六波羅に渡せらる。大納言忠信卿(千葉の介胤綱これを預かる)・
  宰相中将信能(遠山左衛門の尉景朝これを預かる)、この外刑部僧正長賢・観厳(結
  城左衛門の尉朝光これを預かる)。二位法印尊長・能登の守秀康等逐電すと。また熊
  野法印(小松と号す)・天野四郎左衛門の尉等梟首すと。

[百錬抄]
  坊門大納言忠信卿武家に向かわれをはんぬ。
 

6月28日 辛巳
  伊豫の国住人河野入道、当国の勇士等を相従え戦うの間、一方の張本たり。仍って討
  罰すべきの由、武州国中の河野に與せざるの輩等に下知すと。

[豫陽河野家譜]
**六波羅下知状
  伊豫国住人河野四郎通信院宣を帯すと称し、一族並びに当国の勇士等を相率い、合戦
  を致すの間、一方の張本たり。早く一揆の力を合わせ、忠戦の功を励まし、不日にそ
  の身を召し進せしむべし。凶徒に随い逆節を図るの輩は、軍兵を遣わし征伐せしむべ
  きの條、鎌倉殿の仰せに依って、下知件の如し。
    承久三年六月二十八日      武蔵守(在判)
 

6月29日 壬午
  子の刻、安東新左衛門の尉光成六波羅に着す。洛中城外謀反の輩、断罪せらるべきの
  條々具にこれを申す。相州・武州関東の事書を披らき、駿河の前司・毛利入道が如き
  評議有りと。