7月1日 癸未
合戦張本の衆公卿已下の人々、断罪すべきの由宣下の間、武州早くこれを相具し、関
東に下向すべきの旨、面々の預人等に下知すと。
7月2日 甲申
西面衆四人召し渡され梟首す。霜刑の法、朝議に拘わらずと。四人と謂うは、後藤検
非違使従五位上行左衛門少尉藤原朝臣基清(子息左衛門の尉基綱これを斬る。命に依
ってなり)・五條筑後の守従五位下行平朝臣有範・佐々木山城の守従五位下源朝臣廣
綱・江検非違使従五位下行左衛門少尉大江朝臣能範等なり。この輩皆関東被官の士な
り。右大將家の恩を蒙り、数箇の庄園を賜わり預かる。右府将軍の挙に依り五品の位
階に達し昇る。縦え勅定を重んずると雖も、盍ぞ精霊の照らす所に恥ざらんや。忽ち
彼の芳躅を忘れ、遺塵を払わんと欲す。頗る弓馬の道に非ざるかの由、人これを嫌む
と。
7月3日 [武蔵原富太郎氏蔵]
**後鳥羽上皇書状
なにことも、おもふによらぬことヽもにて、さうなくまいるへきよしをもいはぬこそ、
よにわひしけれ、かまへてかまへてハたらかてまつへし、ふかきこヽろさしむなしか
らす、かヽるよの中に、まいらむなと申ありかたさも、いとヽこヽろなかくてあれか
しとのミ、おほゆる也、このふミ、ゆめゆめひろふすへからす、あなかしこ、
七月三日
7月5日 丁亥 小雨降る
一條宰相中将信能、遠山左衛門の尉景朝に相具し、美濃の国に下着す。即ち当国遠山
庄に於いて首を刎ねると。凡そ今度の張本卿相已上に至るまで、皆洛中に於いて斬罪
に処すべきの趣、関東の命有りと雖も、今城外の儀宜しかるべきの由、武州計ると。
[六代勝事記」
信能卿は美濃の国遠山といふところにてぞをはりにける。
7月6日 戊子
上皇四辻仙洞より鳥羽殿に遷幸す。大宮中納言(實氏)・左宰相中将(信成)・左衛
門少尉(能茂)以上三人、各々騎馬、御車の後に供奉す。洛中の蓬戸主を失い扉を閉
ざす。離宮芝の砌は兵を以て墻を為す。君臣共に後悔断腸のものか。
[六代勝事記]
太上天皇を鳥羽殿にうつし奉るに、さりあへぬえびすのいくさ、はたをひるがへしみ
ちをはさめり。大宮中納言・左宰相中将・左衛門尉能茂ばかりにて、よつつじどのを
いでさせ給。 同八日御出家。
7月7日 己丑 [百錬抄]
関東使参洛す。天下また以て物騒なり。重事等有るべしと。
7月8日 庚寅
持明院入道親王(守貞)御治世有るべしと。また摂政(道家)を止む。前の関白(家
實)摂政の詔を蒙らると。今日上皇御落飾、御戒師は御室(道助)。これより先信實
朝臣を召し、御影を模せらる。七條院警固の勇士を誘い御幸す。御面謁有りと雖も、
ただ悲涙を抑え還御すと。
[百錬抄]
左大臣の摂政を止め、前の関白摂政氏の長者たるべきの由詔書を下さる。今日、一院
並びに修明門院鳥羽殿に於いて御出家と。主上密々九條殿に渡御すと。
[河内金剛寺文書]
**六波羅下知状
河内国金剛寺は、御室の御領なり。限り有る御年貢已下の庄務と云い、運上の路次と
云い、その妨げ有るべからざるなり。その上猶制法に拘わらざるに於いては、所犯の
主と勘じ、その身を搦め取り、寄宿の所を見て、交名を注進せしむべきの状件の如し。
承久三年七月八日 武蔵守(泰時在判)
相模守(時房在判)
7月9日 辛卯
今日践祚なり。先帝高陽院皇居に於いて遜位し、密々九條院に行幸す。戌の刻、新帝
(持明院二宮、春秋十歳)持明院殿より閑院(御輦車)に還御せらる。その間持明院
より禁裏に至るまで、軍兵路次を警衛すと。
[百錬抄]
持明院入道宮御子(御年十歳)御践祚の事有り。関東これを申し行う。
7月10日 壬辰
中御門入道前の中納言宗行、小山新左衛門の尉朝長に相伴い下向す。今日遠江の国菊
河の駅に宿す。終夜眠ること能わず。独り閑窓に向かい法華経を読誦す。また旅店の
柱に書き付ける事有り。
昔南陽縣の菊水 下流を汲んで齢を延ぶ 今東海道の菊河 西岸に宿して命を失う
7月11日 癸巳
相州以下勧賞を行わる。これ院中に参る逆徳の輩の所領を順うなり。今日、山城の守
廣綱の子息小童(勢多伽丸と号す)仁和寺より六波羅に召し出す。これ御室(道助)
の御寵童なり。仍って芝築地の上座に副えらる。眞昭武州に申されて云く、廣綱の重
科に於いては、左右に能わずと雖も、この童は門弟として久しく相馴れるの間、殊に
以て不便なり。十余歳単孤頼み無き者、何の悪行有るべきや。預け置かるべきかの由
と。その母また周章の余り、六波羅に行き向かう。武州御使に相逢って云く、厳命を
優じ奉るに依って、暫く宥める所なり。また云く、顔色の花麗と悲母の愁緒と、共に
以て憐愍に堪えたりと。仍って帰参するの処、勢多伽の叔父佐々木四郎右衛門の尉信
綱これを欝訴せしむに依って、更に召し返し信綱に賜うの間梟首すと。
7月12日 甲午
按察卿(光親、去る月出家す。法名西親)は、武田の五郎信光の預かりとして下向す。
而るに鎌倉の使い駿河の国車返の辺に相逢い、誅すべきの由を触れるに依って、加古
坂に於いて梟首しをはんぬ。時に年四十六と。この卿無双の寵臣たり。また家門の貫
首宏才優長なり。今度の次第、殊に競々戦々の思いを成し、頻りに君を正慮に匡し奉
るの処、諫儀の趣、頗る叡慮に背くの間、進退これ谷まると雖も、追討の宣旨を書き
下す。忠臣の法、諫めて随うの謂われか。その諷諫の申状数十通仙洞に残留す。後日
披露するの時、武州の後悔丹府を悩ますと。
[六代勝事記]
光親の卿は不盡のすそのの秋のはつかぜ、萩のした葉をふく露のいのちむすびもあへ
ぬほどに、よもぎのかみをおろし、はちすの花をねがひ、法花経をよみてぞはかなく
なりにける。
[島津家文書]
**北條泰時書状
三郎兵衛殿とヽのたヽかいせられて候上に、いつもえミな人々したいを申候ところに、
したいも申され候はす、さうなく下られ候ひぬ、まことにほうこうさうなき人にて候
也、且ハこのよしを、上へも申あけ候、謹言、
七月十二日 武蔵守(花押)
嶋津左衛門の尉殿
7月13日 乙未
上皇鳥羽行宮より隠岐の国に遷御す。甲冑の勇士御輿の前後を囲む。御共は女房両三
輩・内蔵の頭清範入道なり。但し彼の入道は路次より俄に召し返さるるの間、施薬院
使長成入道・左衛門の尉能茂入道等追って参上せしむと。
今日、入道中納言宗行駿河の国浮嶋原を過ぎるに、荷負の疋夫一人泣く泣く途中に相
逢う。黄門これに問うに、按察卿の僮僕なり。昨日梟首の間、主君の遺骨を拾い帰洛
するの由答う。浮生の悲しみ他上に非ざる、いよいよ魂を消す。死罪を遁るべからざ
る事は、兼ねて以て存中に挿むと雖も、もし虎口を出て亀毛の命有らんやの由、猶殆
ど恃むの処、同過人すでに定まりをはんぬの間、ただ亡の如きその意を察す。尤も憐
れむべき事なり。黄瀬河の宿に休息するの程、筆硯の次いで有るに依って傍らに書き
付く。
けふすぐる身をうき嶋の原にてぞ露の道とはきヽさだめつる
菊河の駅に於いて佳句を書し、万代の口遊に留む。黄瀬河に至りては和歌を詠じ、一
旦の愁緒を慰むと。
[六代勝事記]
隠岐国へうつし奉るに、もののふ御こしに立そひて、先途をすすめまうせり。
宗行卿はうきしまが原をすぐる日、けふをかぎりとききて、
昔南陽縣菊水汲下流而延齢 今東海道菊河宿西岸而失命
けふ過る身をうき嶋の原にてぞつゐの道をは聞定つる
手なんどあらはんとて、たち入たる道のべの家の柱にかきつけて、ゆきゆきてあひざ
はといふ木しげきゆふ露を、日ぐらしの音にそへてききにける。有雅卿もこのほどに
てうせにけり。
[百錬抄]
一院鳥羽殿より隠岐の国に遷御すと。
[大和春日神社文書]
**北條時房書状
尊長法印の事、捜し尋ねらるるの程、猶予せしめ候の処、甲乙の輩事を左右に寄せ、
啻に濫吹を致すのみならず、剰え制法に拘わらざる時は、寺の合力を満て、その身を
搦め取らしめ給うべし。もし猶梟悪の余り、禁遏に堪えざるに於いては、交名を注し
給い、尋ね沙汰せしむべく候、恐々謹言。
七月十三日 相模守(花押)
興福寺別当僧正御房
7月14日 丙申
藍澤原に於いて、黄門(宗行)遂に以て白刃の侵す所を遁れずと。年四十七。最期の
刻に至り、念誦読経更に怠らずと。
7月18日 庚子
甲斐宰相中将範茂、式部の丞朝時の預かりとして、足柄山の麓に於いて早河の底に沈
む。これ五躰不具の者、最期を為すに障碍を生すべし。入水すべきの由所望に依って
なり。
[六代勝事記]
範茂卿はもとより花の都にちりのこるべき人ならず。唯身をうぢかはに名をながすべ
かりけるを、はかなくのがれて、はやかはのそこのみづくとなりにしこそあやなく侍
つれ。
[承久記(古活字本)]
甲斐宰相中将をば式部丞朝時相具して下けるに、「五体不具の者は往生にさはりあん
なり。自水せばや」と宣ければ、「何れにても御計ひにて」と申て、(略) 籠をく
み石を畳みて、其上にすへ奉り、左右の膝をあみ付て、沈奉らんとす。
7月20日 壬寅 陰
新院佐渡の国に遷御す。花山院少将能氏朝臣・左兵衛の佐範経・上北面左衛門大夫康
光等供奉す。女房二人同じく参る。国母修明門院・中宮・一品宮・前帝已下別離の御
悲歎、甄録に遑あらず。羽林病に依って路次より帰京す。武衛また重病を受け、越後
の国寺泊浦に留む。凡そ両院の諸臣存没の別れ、彼是共に傷嗟哀慟せざると云うこと
莫し。それこれの為如何。
[六代勝事記]
新院を佐渡国へうつしたてまつる。女房二人殿上人二人ばかりにて、夜をこめて都を
いでさせ給ふ。花山院少将もわづらふことありてかへりぬ。越後国まではつかせ給ひ
ぬるを、兵衛佐範経さへ、やまふおもくて、このうちにしづみぬれば、(略)
[百錬抄]
出仕すべからざるの人々、武士これを注進す。殿下より下さると。
[薩藩旧記]
**藤原某書状案
いよせめのいくさにまいらせ給候へきよしの事、
さヽけ給候ぬ、たヽしかわのヽにうたうかう人にてまいり候あひた、そのいくさハ候
ましきに候、いまハいそき御京上候て、むさしのとの・さかみ殿のけさんにいらせ給
へく候か、又さやうにのほらせ給候をりふし、いくさ候へしときかせ給候て、まいら
せ給へきよし候こそ、しんへうに候へ、このよしはさこのせうまいり候へハ、けんさ
んにいれまいらすへきよし申へく候、恐々、
七月二十日 藤原(在判)
かこしまの籐内殿(御返事)
7月21日 [皇帝紀抄]
政始め有るべきと雖も、御印紛失に依って延引す。
[百錬抄]
新院佐渡の国に遷御すと。
7月24日 丁未
六條宮但馬の国に遷坐し給う。法橋昌明守護し奉るべきの由、相州・武州下知を加う
と。
[六代勝事記]
六條の宮を但馬国へうつしたてまつる。
[播磨後藤文書]
**六波羅下知状
後藤六郎兵衛の尉基重宇治河合戦の時、御方として忠を致しをはんぬ。然らば後家播
磨の国安田庄に住すと。早く安堵せしむべきの状、下知件の如し。
承久三年七月二十四日 武蔵守平(花押)
相模守平(花押)
7月25日 戊申
冷泉宮備前の国豊岡庄児嶋に遷らしむ。佐々木の太郎信實法師武州の命を受け、子息
等をしてこれを守護し奉らしむと。阿波宰相中将(信成)・右大弁光俊朝臣等配所に
赴くと。
[六代勝事記]
冷泉の宮を備前国へうつし奉る。
7月26日 己酉
関東に於いて、勲功の賞並びに畿内西国守護職等の事沙汰有りと。
[長門山内首藤文書]
**関東下知状
備後国地眦庄の事、地頭重俊の子息太郎、京方に於いて死去せしむ。同次郎御方に於
いて合戦の忠を致しをはんぬ。然らば重俊地頭職相違無く安堵せしむべきの状、仰せ
に依って下知件の如し。
承久三年七月二十六日 陸奥守平(義時花押)
7月27日 庚戌
上皇出雲の国大浜湊に着御す。この所に於いて御船に遷座す。御共の勇士等暇を給い、
大略以て帰洛す。彼の便風に付け、御歌を七條院並びに修明門院等に献ぜらると。
たらちめのきえやらでまつ露の身を風よりさきにいかでとはまし
しるらめやうきめをみほの浦千鳥なくなくしほる袖のけしきを
[六代勝事記]
いづもの国おほはまといふ所につかせ給ひぬれば、舟人たよりの風をまつの下ふしよ
ごろへて、ならはぬ床の露けさ。猶行末もふかき恨をとりあへざりし。鳥羽殿の御お
もかげのかぎりなどあはれをつくして
たらちねの消やらてまつ露の身を風より先にいかてとはまし
波風のこえにつけても、ひまなき御心のうちは、ただおぼしめしやらせらるべしとて、
しるらめやうき世をみほの浦ちとりなくなくしほる袖のけしきを
かくしつつ、御船にめして、(略)
[承久三・四年日次記]
**後堀河天皇宣旨
近日都鄙騒擾を罷る、丁壮軍旅に苦しみ倍々凋落す、職として斯くの由、就中五幾七
道諸国の神社・仏寺已下の庄領、或いは武士事を左右に寄せ、州縣を煩費す、或いは
民庶租税を営まず、山沢に亡命す。宜しく彼の宰吏等に下知せしめ、狼藉を停止せよ、
但しもし子細有らば、聴裁に言上す。縡機急に在り、暫く延怠莫れてえり。
7月28日 [承久記]
除目行はれて、美濃・丹波・丹後三箇国は、持明院殿へぞ参りける。伊豫中将実正朝
臣、讃岐国を賜り、持明院中将基保朝臣、内蔵頭になさる。
7月29日 壬子
入道二位兵衛の督(有雅、去る月出家す。年四十六)小笠原の次郎長清の預かりとし
て、甲斐の国に下着す。而るに聊か因縁有るに依って、露命を救わるるべきの由、二
品禅尼に申すの間、暫く死罪を抑え、彼の左右を相待つべきの由懇望せしむと雖も、
長清許容に及ばず。当国稲積庄小瀬村に於いて誅せしめをはんぬ。須叟して刑罪を宥
むべきの旨、二品の書状到来すと。楚忽の躰たらく、定めて亡魂の恨み有るものか。