1223年 (貞応2年 癸未)
 
 

2月1日 甲戌 晴
  巳の刻地震。今日二所の御神事始めなり。
 

2月8日 辛巳 霽
  奥州御造作の事、武州の御沙汰として、陰陽の頭泰忠朝臣並びに在親朝臣・在継朝臣
  等に尋ねらる。御返事今日到来す。泰忠の状に云く、半吉の占なり。方違えの事本主
  これを知らずと雖も、本主の禁忌方に於いては、寄宿の人の犯土・造作尤も憚るべき
  なりと。在親・在継の状に云く、占いは不快なり。方違えの條増地の事、本文四方皆
  以て憚り有りと雖も、便宜に随い何方と雖も、増地の事忌来らざるものなり。また不
  知の本主に於いては、寄宿の人禁忌に当たらざれば憚り無しと。これに就いて重ねて
  評定有りと。
 

2月27日 庚子
  二位家勝長寿院の奥地を点じ、伽藍並びに御亭を建立せらるべきに依って、今日彼の
  御亭に於いて日時定め有り。知輔・親職・晴賢・忠業・泰貞・宣賢・重宗、各々撰び
  申して云く、事始め(木造り・地曳き)は二月二十九日壬寅、居礎は四月六日戊子、
  立柱上棟の事は同十九日辛卯てえり。また御移徙は七月二十六日丁卯、御堂供養は八
  月二十日庚寅の由、親職別してこれを撰び申すと。伊賀次郎左衛門の尉光宗この事を
  奉行せしむと。件の地は、当御居所より南方に当たるなり。