1223年 (貞応2年 癸未)
 
 

1月1日 甲辰 天晴
  椀飯有り(奥州御沙汰)。御剱は駿河の前司義村持参す。
 

1月2日 乙巳
  椀飯。御剱は陸奥修理の亮(重時)これを役す。その後、若君の御方に於いて手鞠御
  会有り。奥州・駿河の守・後藤左衛門の尉・隠岐入道・苅田右衛門の尉等その衆たり。
  若年の輩は召し加えられずと。
 

1月5日 戊申
  椀飯、以後御弓始め有り。
  射手
   一番 駿河の次郎     伊賀四郎左衛門の尉
   二番 下河邊左衛門次郎  佐々木加地の八郎
   三番 嶋津三郎兵衛の尉  横溝の六郎
   四番 横溝の五郎     本間の四郎
   五番 武田の六郎     原左衛門の尉
 

1月6日 己酉
  若君御祈り始めなり。七日の内たるべきや否や。周防の守親實の奉行として、二品に
  申し合わせらる。何事か有らんやの由仰せらると。
 

1月18日 辛酉
  戌の刻西より雷鳴。一時を経て休止す。
 

1月20日 癸亥 酉の刻雷鳴
  今日源進士實親の奉行として、奥州人々に仰せ合わせらるるの事有り。これ若君御亭
  の西方の地頗る狭く、西大路を庭に入れられ、築地を構うべしと。隠岐入道・駿河の
  前司の如き然るべきの由これを申す。この上猶彼の大倉舘に於いて、陰陽師等を招き
  子細を問わる。或いは不快の旨これを申す。或いは当時広かるれば、聊か祟り有るべ
  し。今年以後御沙汰有るべきの由と。各々申す所頗る一同せざるなり。
 

1月23日 丙寅
  二品民庶の憂喜を知らんが為、去年の合戦以後の新補守護・地頭等の所務の間、非違
  相交じらば注し申すべきの旨、畿内西国の在廰等の中に仰せらる。奥州御書を下さる
  と。
 

1月24日 丁卯 雪降る
  奥州駒十疋を若君に進せらる。御覧の後人々に分け給う。駿河の前司奉行たりと。
 

1月25日 戊辰
  西大路を若君の御方の壺に入れらるべきや否やの事、重ねてその沙汰有り。陰陽師等
  召しに応じ奥州の中門廊に参会す。實親を以て尋ねられて云く、去る二十日の御占い
  一準せざるの條、不審無きに非ず。各々群議を凝らし申せしむべしてえり。知輔・忠
  業申して云く、昨日未の時小吉、将勾陳を用ゆ。将勾陳は主の四壁の神、上天一の最
  吉と。晴賢申して云く、占法は発用を以て力宗とす。発用は無気を起こす。神帯は向
  陣とす。向陣は将軍尤も憚りしめ給うべきの文これ有り。今年を過ぎるの後その沙汰
  有るべしてえり。知輔・忠業・泰貞・宣賢と晴賢・親職と相論に及び、遂にこれを決
  せず。また件の西方奥州当時の舘は、承久二年十二月武州に譲渡せられをはんぬ。武
  州は在京なり。仍って京より大将軍方に相当たり、本主に相触れざると雖も、寄宿方
  の人忌たらば、彼の計として犯土・造作憚るべきや否や、卜筮有り。同じく以て不快
  と。彼是京都に尋ねらるべきの由と。次いで去る比の雷鳴並びに二十二日月心火星を
  犯す変(雪に依って未だ消えず)等の事、伊賀六郎右衛門の尉光重の奉行として、そ
  の沙汰有りと。
 

1月26日 己巳
  肥田の又太郎奥州の御使として上洛す。犯土・造作等の事、陰陽道一揆せざるの間、
  長官等に尋ね決せられんが為なり。