1225年 (元仁2年、4月20日改元 嘉禄元年 乙酉)
 
 

4月20日 夜より甚雨、朝止む [明月記]
  今日改元と。勘文を見ず。年号毎日改むと雖も、乱政を改めざれば何の益か有らん。

[皇帝紀抄]
  改元。天下静まらざるに依ってなり。
 

4月21日 巳後天漸く晴 [明月記]
  伝聞、改元嘉禄と。病患に依ってこれを改む。(中略)一同今度嘉禄・仁治撰び申さ
  る。猶一同申すべき由仰せらる。その時猶この二字御計在るべしトテ、また貞正を副
  え上げらる。而るに元仁二年を改め嘉禄元年と為すべし。依って嘉禄元年の例、詔書
  に作さしむト仰せられをはんぬ。
 

4月26日 天晴陰 [明月記]
  巷説、白河染殿僧都の養い奉る孫王、出家し給うべからず。恭敬すべしの由、関東よ
  り乳母の許に示し送る。また巷説、南海の上皇御帰洛有るべしと。彼是縦横か。
 

4月30日 庚申 晴
  夜半、毛利蔵人大夫入道西阿の宿所(御所向かい)焼亡す。近辺一許町災す。