1225年 (元仁2年、4月20日改元 嘉禄元年 乙酉)
 
 

5月1日 辛酉
  弁僧正定豪・大蔵卿法印良信・駿河の前司義村・隠岐入道行西並びに陰陽権の助国道
  等、召しに依って参会す。二品行西を以て仰せ出されて云く、当時世上病死の者数千
  に及ぶ。その災を攘わんが為、心経・尊勝陀羅尼各々万巻書写供養せらるべし。且つ
  は何様たるべきや計り申すべしと。僧正申して云く、千口の僧を屈し、一千部の仁王
  経を購読せらるべきかと。また僧正法印申して云く、嵯峨天皇の御宇疫癘発り、五畿
  七道夭亡の族甚だ多し。仍って宸筆を染め心経を御書せしめ給い、弘法大師を以て供
  養を遂げらると。これに就いて心経等書写の事、猶宜しかるべきの由その沙汰有り。
  則ち書写供養の日時を撰び申すべきの旨、国道に仰せらる。今月十四日・二十二日を
  以て挙げ申す所なり。
 

5月2日 壬戌
  午の刻京都の使者到来す。去る月二十日改元、元仁二年を改め嘉禄元年と為す。
 

5月3日 癸亥
  二品の御方鰭板中門並びに織戸を立てらるべきの由、その沙汰有り。然るに夏季その
  憚り有るべきや否や、武州御書を以て陰陽師に問わしめ給う。六月に入るの後、鰭板
  を造らるべし。てえれば、五月たりと雖も、憚るべからざるの由これを申すと。
 

5月6日 丙寅
  武州除服の事人々に問わる。而るにこの祓いは葬礼の沙汰なり。陰陽師勤むべきか、
  他人を用いるべきかの事なり。権の助国道並びに大監物光行入道等申して云く、葬礼
  の沙汰人勤むべきなりと。次いで源内左衛門の尉景房申して云く、陰陽師を請じ勤行
  せしむべき事なりと。
 

5月11日 辛未
  式部大夫(朝時)除服、晴幸祓いを勤むと。
 

5月12日 壬申
  武州並びに駿河の守(重時)・陸奥の四郎(政村)・同五郎(實義)・大炊の助(有時)
  等除服祓いの事、去年故右京兆の葬礼は、主計大夫知輔沙汰を致すに依って勤めしむ
  べきの処、所労の間、子息を以て名代と為しこれを行わしむと。
 

5月17日 丁丑
  巳の刻地震。
 

5月20日 庚辰
  千僧供養の事その沙汰有り。衆僧の座の為、鶴岡の廟庭に於いて仮屋等を造らると。
 

5月22日 壬午 天晴風静まる
  鶴岡八幡宮に於いて千二百口の僧供養有り。寅の刻衆会し、各々左右廻廊並びに仮屋
  等に着座す。先ず仁王経一巻を転読し、次いで心経・尊勝陀羅尼等十返を誦す。また
  心経・尊勝陀羅尼各々一千巻これを摺らる。次いで彼の経各々百巻金泥を以て書写せ
  しめをはんぬ。これは諸国一宮毎に、一巻充て奉納せらるべしと。次いで供養の儀有
  り。導師は弁僧正定豪、十物十五種(被物・砂金・裹物・帖絹・染物・染付・帷糸・
  白布・藍摺・綿・色革・銭貨・准布)、加布施は紫宿衣一領。千僧布施は口別に裹物
  一・帖絹一疋・袋米(三斗これを納む)。二百僧分は被物一重・帖絹一疋・袋米(同
  上)。この外諸人曳出物を加う。布・銭・扇・経袋等の物巨多、その員を知らずと。
  天下疫気流布し、また炎旱旬を渉るの間、彼の御祈りの為、諸御家人に勧めこの作善
  に及ぶ。大膳の亮廣仲・右近大夫将監佐房等奉行たりと。
 

5月24日 甲申 去る夜雨下る
  炎旱の間窮民愁緒の処、法会の後忽ちこの甘雨有り。爰に知る、諸天感応を垂れ、国
  土豊饒を歌うべきものかな。
 

5月29日 己丑
  二位家御不例と。