1226年 (嘉禄2年 丙戌)
 
 

8月1日 甲申 晴
  子の刻地震、大動なり。今日准布を止め銅銭を用ゆべきの由仰せ下さる。武州殊に申
  し沙汰せしめ給うと。また幕府の南庭に於いて、相撲三番を召し決せらる。これ京都
  より参向の者なり。両国司見物せらる。その外の人々群を成すと。
 

8月3日 陽景晴 [明月記]
  心寂房来たり談る。日来風聞の事委しくこれを談る。美濃の国高桑の次郎と称す者、
  搦め取り六波羅に在り。謀反の事承伏す。同類を指さず。また覺心房と云う者、京中
  の張本として、一切経谷に在り。その身逐電す。件の者の従者大夫房搦め得る。三十
  三通の書状(表書有り)武士の手に入る。当時内々沙汰す。武州六波羅の四方に掘池
  (口一丈五尺・深さ一丈と)を掘る。諸国七道徒党充満するの由披露すと。長井入道
  (廣元の子時廣)聟を執る。侍従氏通と(後聞、また説忠行卿次男の侍従と)。
 

8月4日 天晴陰 [明月記]
  未の刻ばかり巷説、南京の衆徒宇治に発向す。武士騒動し、旌旗馳奔すと。穏居の身
  事根を知らず。(略)菅十郎左衛門と云う武士已下、三百騎ばかり馳せ向かいをはん
  ぬと。

[皇帝紀抄]
  金峰山・勝手古守両社の神輿宇治に坐す。これ高野を訴えるに依ってなり。武士入洛
  を相防がんが為馳せ向かうと。[百錬抄]これ蔵王堂放火の者、高野山結構を為すの
  由、群訴すと。
 

8月7日 庚寅 霽
  天変・地震の御祈り等を行わる。所謂、
   一字金輪護摩(若宮の別当僧正) 八字文殊法(宰相律師)
   土曜供(助法印珍誉)      木曜供(師法橋珍瑜)
   鎮星祭(泰貞)         三万六千神祭(国道朝臣)
   属星(宣賢)          歳星(文元)
   螢惑(晴賢)          北斗(二位僧都)
 

8月10日 天晴 [明月記]
  覺法眼の消息に云く、去る七日高野山の堂塔、三百余宇閉扉す。住侶三千七百余人、
  来十三日山を離れ参洛すべし。一宗の滅亡、門徒の愁歎、ただ察すべしてえり。芳野
  の神輿、また宇治に着き給うと。耳に入る事毎に、皆これ悲歎の源か。
 

8月13日 天晴 [明月記]
  司天の説伝聞す。今月十一日、甲午昏戌時歳星と鎮星共に相犯し同度に在り。月歳星
  を去ること一尺四寸の所、月鎮星を去ること二尺四寸の所、歳星鎮星を去ること一尺
  六寸の所、甚だ不快の変と。恐るべし歎くべし。
 

8月19日 天晴 [明月記]
  高野の事逐日嗷々す。去る十三日宮終に御退出。十五日仁和寺に入らしめ給う。十四
  日河内の国往生院に参向す。遠近馳走す。極めて以て窮屈、住侶皆山を離る。猶張本
  を召さるか。堂舎塔廟を焼くべきの由相議すと。件の張本衾の宣旨を下さる。その後
  また住侶の所存未だこれを聞かず。吉野の神輿未だ帰り給わずと。
 

8月21日 朝天遠晴 [明月記]
  昨日関白家、家司一人・番頭男七八人を下す。仰せらるる事有るに依って宇治神人の
  許に遣わす。是非無く張伏す。各々流血、骨髄を摧く。舁き載せて帰京す。この間神
  輿吉野に帰り入り給う。(略)信繁入道北白河院の為御使として関東に下向す。昨日
  帰参すと。