1226年 (嘉禄2年 丙戌)
 
 

7月1日 甲寅 晴
  亥の刻地震。今日、橘右馬の允公高並びに本間太郎左衛門の尉忠貞・小河左衛門の尉
  ・同右衛門の尉等、去る承久三年六月の勢多合戦の勧賞を蒙る。彼の輩相州の陣に加
  わり軍忠を励むと雖も、未だその賞に預からざるの間、相州連々挙し申さるるの処、
  猶許容無きに依って、自分の勲功の賞伊勢の国十六ヶ所の内、四ヶ所を辞し、御下文
  を申し與へしめ給うと。
 

7月5日 天晴 [明月記]
  心寂房来たり談る。河東の武士本馬左衛門の妻他行の間、竊盗その宅に入り、衣装・
  資財余残無く取り尽くすと。
 

7月6日 天晴 [明月記]
  武蔵の太郎嫡男(五六歳か)、修理の亮泰綱の聟(女子二三歳)たるべきの由、泰時
  朝臣約束を成すと。東方の習い皆此の如く占定すと。
 

7月11日 甲子 晴
  故禅定二位家周関の御仏事、勝長寿院に於いてこれを修せらる。一切経供養の儀有り。
  舞楽を奏す。大蔵卿法印良信導師たり。この経日来聖人の勧進なり。相州・武州以下
  人々群集す。竹の御所御出でと。また相州塔婆を建立す。供養の導師は荘厳房律師行
  勇と。
 

7月14日 天晴 [明月記]
  夜に入り相公来たり。一昨日河東の事、大炊の助親直(鎮西守護能直子)、菅十郎左
  衛門(武蔵の太郎近習の者と)の宅に於いて酔郷の際、家主に向かい放言す。主客互
  いに抜刀に及ぶと雖も、傍輩満座に取り付けて押し出す。親直本鳥を放ち、大口ばか
  りを着す。騎馬宿所に帰る。白昼の間見る者多し。武士等また相馳せると雖も制止を
  加うと。
 

7月15日 戊辰 晴
  月蝕。正見皆虧くと。
 

7月18日 辛未 晴
  戌の刻天変有りと。
 

7月22日 乙亥 天晴、午後大雨 [明月記]
  世間謀反有る者出来するの間、武士等一両搦め取り、拷問すと雖も全く承伏せず。同
  類を指さず。党類三百人その謀りを成すの由風聞す(また云く、一切経谷に於いて、
  武士取る所の表書無きの書状三十二通、事体露顕す。京中八十同心すと)と。