1227年 (嘉禄3年、12月10日 改元 安貞元年 丁亥)
 
 

3月1日 庚戌 晴
  戌の刻太白昴星を凌犯す。今日大倉御堂を曳かるべき事重ねて沙汰有り。曳かるべか
  らざるの旨治定すと。また熊野山蜂起の事評定を経らる。彼の神輿もし入洛の聞こえ
  有らば、京畿の御家人等途中に参会し、留め奉るべきの由、六波羅に仰せ遣わさると。
  白河院の御宇永保二年壬戌十月二十五日、彼の山の衆徒始めて三所の神輿を荷負い入
  洛す。即ち御帰座奉らると。
 

3月7日 丙辰 陰
  戌の刻大地震。所々の門扉・築地等顛倒す。また地割れると。去る建暦三年和田左衛
  門の尉義盛叛逆の比、此の如き大動有り。時に中下馬橋の地割れる事有るの由、古老
  これを談る。近年に於いては比類無しと。
 

3月8日 丁巳 晴
  陰陽道等地震の勘文を捧ぐ。而るに晴幸・宣賢等の所存一同せざるに依って、相州亭
  に於いて相論に及ぶと。
 

3月9日 戊午 晴
  隠岐院三宮、奸謀を巧むの輩有りと称す。伴党四五人なり。前浜辺の民屋に於いて、
  波多野中務の次郎経朝これを生虜り進す。金窪左衛門の尉・平三郎左衛門の尉仰せを
  奉り推問するの処、伊豆の前司所従の百姓たるの由、白状を進すと。
 

3月13日 壬戌 晴
  弾上忠季氏の奉行として、地震御祈りの事内外に仰せらると。
 

3月15日 甲子
  酉の刻地震。
 

3月19日 戊辰 雨降る
  去る九日の謀反人の事評議有り。或いはこれ言い足らざる事なり。造意の企て還って
  信用に能わず。且つは物狂いの致す所か。ただ関東御分の郡郷を追放せらるべきの由
  意見有り。或いは民間の野心、殊に以て刑法に宥められ難し。向後悪を懲らさんが為、
  斬罪に行わるべきの旨これを申す。遂に罪名落居するの間、二位家第三年の御仏事以
  後、沙汰有るべしと。次いで波多野の次郎経朝抽賞せらる。美作の国に於いて一村を
  賜うと。これ忠節を黙止せられ難きが故なり。
 

3月22日 天快晴 [明月記]
  冷泉女房の外祖母(時政朝臣後家)来臨す。冷泉の消息に依って禅尼行き向かわる。
  愚老此の如き事を知らず。ただ惘然の外他に無し。
 

3月24日 癸酉 晴
  三合並びに地震御祈り等始行せらる。
   五座の北斗護摩(大進僧都寛基)  八字文殊法(越後阿闍梨)
   一字金輪法(信濃法眼)      七曜供(助法眼珍譽)
   北斗供(師法橋珍瑜)
   三萬六千神祭(小山下野前司入道の沙汰、御使駿河蔵人。晴幸)
   地震祭(駿河入道の沙汰、御使星崎判官代。晴賢)
   天地災変祭(駿河前司の沙汰、御使江兵衛の尉。宣賢)
 

3月27日 丙子 晴
  大進僧都寛基陸奥の国葛岡郡小林新熊野社を拝領するの間、殊に社務を興行す。これ
  御祈祷の賞と。今日、幕府に於いて相撲を覧る。その中法師の相撲一人有り。城の太
  郎進す所なり。この相手は周防の前司召し進す男字平太なり。而るに相構えて男に勝
  たしむべきの由、将軍潛かに思し食し入る。仍って籐内左衛門の尉定員、陰陽師散位
  晴賢・雅楽の助晴貞・散位重宗・散位道継等を召す。一(男)・二(法師)、何方勝
  つべきやの由御占い有り。各々午の刻を以て占い申す。一を以て勝つべきの由晴賢こ
  れを申す。晴貞一勝つべしと。重宗持ちたるべしと。道継二勝つべきの由これを申す。
  晩に及び、相撲十七番雌雄を決せらる。件の法師男に負けをはんぬ。
 

3月28日 [皇帝紀抄]
  盗人陰陽寮の倉を焼き開き、累代の物等を取ると。
**[百錬抄]
  近日、内蔵寮の倉庫(二條猪熊)盗人等乱入し、累代の御物を捜し取ると。目録分明
  ならざるの間、紛失物その員を知らずと。