1227年 (嘉禄3年、12月10日 改元 安貞元年 丁亥)
 
 

2月4日 甲申 霽
  京都の使者到来す。去る月二十六日将軍家近江権の守を兼ねしめ御うの由これを申す。
 

2月5日 乙酉 霽
  子の刻雷鳴。
 

2月8日 戊子 霽
  今年中終三合に相当たるの上、日来天地の変異重疉せしむと雖も、年始たるに依って、
  天文道各々子細を申さず。今日彼と云い是と云い勘文捧ぐ。後藤左衛門の尉基綱これ
  を伝達す。進士判官代澄邦御前に読み申すと。子の一点、幕府東西の人家等並びに武
  州の納所一宇焼亡す。御所中及び相州・武州の両亭・竹の御所等殊に驚かしめ給う。
  然れども各々無為と。
 

2月13日 癸巳 晴
  阿波院御所造営の事その沙汰有り。寝殿に於いては、守護人小笠原の弥太郎これを造
  進す。薬屋外郭の用途料は、諸御家人に差し宛てらるる所なり。各々所課の用途行事
  に付す。豊後の前司返抄を執り進せしむべきの由仰せ下さる。但し臨時に土民に徴下
  せしめば、定めて弁済に泥み、本所の乃貢懈緩の基たるべきか。地頭得分の内を以て
  その沙汰を致し、敢えて百姓を煩わすべからざるの旨、面々に仰せ含めらるべきの由
  と。
 

2月14日 甲午
  将軍家白地に三浦駿河の前司義村の休所に渡御す。則ち還御す。義村追って御馬・御
  劔等を進すと。
 

2月15日 乙未 晴
  幕府の南庭に於いて十二番の相撲を召し決せらる。見物の人々群を成す。今日、武州
  の持仏堂に於いて涅槃会を行わる。五十二種の捧物・供具等を備う。信濃法眼道禅涅
  槃講式を読む。大蔵卿法印良信舎利講式を読む。大進僧都寛基遺跡講式を読むと。
 

2月19日 己亥 霽
  武州の御願として、右京兆周関供養の大倉御堂これを曳き退け、彼の跡に二位家第三
  年の御料に新御堂を建立せらるべきの由その沙汰有り。且つは憚り有るや否や、評定
  衆等に尋ね問わる。先ず隠岐入道行西・玄番の允康連申して云く、件の精舎、本新共
  に以て幽霊の御追善なり。而るにこれを引きこれを建つ。すでに重疉たるの儀か。就
  中本を退け、供養の仏像を安置するに、彼の地を点じ伽藍を新造せらる事、始めを軽
  んじ後を重んずるに似たり。冥慮頗る測り難し、尤も憚り有るべしと。駿河の前司以
  下両三輩これに同ず。助教今日障りを申し参らずと。次いで陰陽権の助親職朝臣並び
  に晴幸・文元以下に問わるるの処、親職・文元憚り有るべからざるの由これを申す。
  また泰貞・晴幸・宣賢憚るべきの旨これを申す。
 

2月20日 庚子 陰
  夜半俄に騒動有り。その実無きに依って即ち静謐せしむと。
 

2月21日 辛丑 晴
  未の刻亀谷の辺焼亡す。

[明月記]
  司天伝の説、太白順行し昴宿に向かう。入犯は大慎と。太白昴を食む。和漢咎徴空し
  からずと。
 

2月25日 乙巳 晴
  造太神宮の役夫・公米の事三箇条を定む。式は朝家無双の重事なり。庄公平均に懈怠
  無く沙汰を致すべきの由、今日仰せ下さると。
 

2月27日 丁未 霽
  武州の御亭に於いて、御堂地の事、彼の御堂を曳かるべきや否や、助教師員・法橋圓
  全・吉田右衛門の志時方・弾正忠季氏・右衛門の尉時定等に尋ねらるるの処、師員・
  季氏・時定同心し、憚らるべきの由これを申す。圓全・時方憚り有るべからざるの由
  これを申す。
 

2月29日 己酉 晴
  六波羅の飛脚到来す。去る十五日熊野山に於いて合戦有り。平井法眼等の党なり。茲
  に依って衆徒蜂起す。神躰を動かし参洛せんと欲するの由、同二十一日洛中に披露す。
  然れば公家の重事たるべきの旨これを注進せしむ。