1229年 (安貞3年、3月5日 改元 寛喜元年 己丑)
 
 

7月3日 戊辰
  寅の一点艮方赤し。申の刻雷鳴。御倉の南の辺雷落つと。
 

7月4日 己巳 晴
  午の刻将軍家御不例、御顔腫れる。去年十二月七日初めてこの事有り。その後まま再
  発し御う。仍って助教師員の奉行として御占いを行わるの処、御内心所労の上、呪咀
  霊気の氏神祟りを成すの致し奉る所か。内外に就いて祈謝せられば、漸く御平減有る
  べきの旨、七人同心に占い申すと。
 

7月5日 庚子 晴
  今朝御腫れ聊か減ぜしめ給うと。
 

7月7日 壬申 天晴
  将軍家馬場殿に出御す。この所に於いて童舞有り。若宮の新別当法印定親参上すと。

[明月記]
  山の三村庄の事、道理に任せ本領家に付けらる。本地頭の沙汰たるべし。猶訴訟の山
  僧有らば、法に任せ召し禁しめらるべきの由、関東これを申す。西塔の僧徒三百人ば
  かり、半分は貫首の御門徒として、大略承伏す。自余若くは濫訴を致すか。沙汰有る
  べしと。
 

7月8日 癸酉 晴
  五壇の御修法を始行せらると。
 

7月11日 丙子
  故禅定二品の御月忌に当たり、勝長寿院に於いて一切経会を行わる。相州・武州参ら
  る。
 

7月23日 戊子 天晴
  丑の刻月歳星を犯す(相去る一尺の所)。
 

7月29日 甲午 天晴 [明月記]
  関東の入道本居所に於いて堂障子を作り、大和の国の名所(十ヶ所)を書す。予・前
  の宮内卿詠ぜしむ歌、色紙形に押すべきの由宰相に誂う。仍って今朝腰折五首書き送
  る。前の宮内秀歌多し。行能朝臣書くべしと。