1229年 (安貞3年、3月5日 改元 寛喜元年 己丑)
 
 

9月4日 戊辰
  武州の姫公(駿河の次郎の妻)来十日上洛せらるべきに依って、今日、将軍家並びに
  竹の御所御餞物等を送り遣わさると。御小袖・宿衣等(中持に納むと)。
 

9月5日 己巳 天晴
  駿河の次郎の女房始めて新調の輿に乗り、竹の御所に参らると。
 

9月9日 癸酉
  武州、南條の七郎次郎・横尾左近将監・美濃澤右近次郎・弥平太三郎等を以て、京都
  に差し遣わさる。これ南條に於いては和琴を授け、その外の三人に至りては神楽の秘
  曲を伝うべきの由、右近将監多の好氏の許に仰せらるる所なり。
 

9月10日 甲戌 晴
  辰の刻駿河の次郎泰村妻室(武州御息女)を相具し上洛す。これ大番勤仕の為なり。
 

9月16日 庚辰 天晴 [明月記]
  忠弘法師来たり次いでに云く、式部孝行対馬所領の土民、強盗の為虜掠せられ、逃げ
  去ること能わず。大強盗この男を以て職事に補し、諸同類を催せしむ。帰郷の心有り
  と雖も、殺害を恐れて奉仕す。去る比適々式部の従者に遇い、遂にこれに随い式部の
  宅に行く。式部これを聞き、即ち河東に向かいこの由を示す。修理の亮これを聞き、
  指示に随い武士を遣わし搦め取る。皆以て承伏すと。その数未だ尽きざるに依って、
  この事を秘蔵す。当時猶搦め取ると。
 

9月17日 辛巳 晴
  将軍家海辺御遊覧の為杜戸浦に御出で。これ御不例御平癒の後、御出始めなり(去る
  七八月の間御不予、御顔腫れると。種々御祈祷これ在り)。相州・武州参らる。犬追
  物有り。射手は大炊の助有時主・足利の五郎長氏・小山の五郎長村・結城の五郎重光
  ・修理の亮泰綱・武田の六郎信長・小笠原の六郎時長・長郷の八郎・佐原左衛門四郎
  ・佐々木の八郎已下数輩なり。相州仰せられて云く、駿河の次郎折節上洛す。尤も遺
  恨と。駿河の前司喜悦顔色に顕わると。その後射をはんぬ。犬三十余疋。また例の作
  物を覧る。長村・時長等射芸を施すと。未の斜め俄に暴風起こりその興少なし。申の
  斜めに及び風猶休まざるの間還御すと。
 

9月18日 壬午 天晴
  将軍家御夢想の告げ有るに依って、御修法両壇を始行せらる。若宮の別当法印定親・
  大進僧都観基等これを奉仕すと。
 

9月20日 甲申
  巳の刻地震。
 

9月24日 戊子 天晴 [明月記]
  去る月の比、関東勝事有り。三宮(惟明親王)、忽ち下向し八幡若宮の拝殿に坐す。
  下向の由を触れられ、太だ驚奇し、急ぎ御上洛有るべきの由有るを申す。帰京その所
  無し。元服せず。また出家の計略無し。ただこの辺に居住すべきの由懇望すと雖も、
  武士一人を付け、早く上洛せしめ、然るべき僧一人仰せ付けられ、出家有るべきの由
  公家に申す。使の武士醍醐の辺に送り置くと。
 

9月30日 甲午 晴
  若宮大路西の頬下馬橋以北焼亡す。