1229年 (安貞3年、3月5日 改元 寛喜元年 己丑)
 
 

10月6日 庚子 天晴 [明月記]
  朝間の巷説、蔵人頭・国々闕等沙汰無し。下名有るべきの由風聞すと。(中略)国々
  の事、任人の名字等尋ねらるるか。経るべき程、下名任ぜらるべきの由沙汰有りと。
  蔵人頭親房懇望有り。哀燐補せられんと欲するの処、近日親房の身不祥有りと。実に
  これ運の然らしめざるか。義村深く殿下の御事を遏絶するの由聞こし食さる。恐惶極
  まり無し。関東奉公の身寧ろ然るべきか。この申し披きに上洛の志有るの由これを申
  す。将軍の抑留の仰せに依ってなまじいに止む。次男猶参らしむの由内々これを申す。
  この事伺い問わるるの処、右京大夫この詞有るの由この聞こえ有りと。
 

10月9日 癸卯
  長尾寺院主圓海の門弟僧受戒の為上洛するの間、路次の過書を賜う。相州・武州の連
  署状なり。指せる高僧に非ずと雖も、仏法に帰依するの御志に依って此の如しと。
 

10月14日 戊申 晴
  故右府将軍十三年(明後年)の奉為、南新御堂内に塔婆を建てらるべきの由、政所に
  於いてその沙汰有り。弾正忠季氏の奉行として、日次の勘文を召すと。
 

10月22日 丙辰 晴
  将軍家由比浦に出でしめ給う。流鏑馬有り。相模の四郎・足利の五郎・小山の五郎・
  駿河の四郎・武田の六郎・小笠原の六郎・三浦の又太郎・城の太郎・佐々木の三郎・
  佐々木加地の八郎等射手たり。三的の後、三々九・四六三以下の作物等各々これを射
  る。この芸朝夕御覧ぜらるべき事に非ざるの由、相州の如き内々諫め申さると雖も、
  凡そ御入興有るに依って、これを止めらるに及ばず。連々御覧ぜらるべしと。
 

10月24日 戊午 晴
  申の刻地震。相州新鞠並びに靴等を武州に献ぜらると。
 

10月25日 己未 晴
  未の刻地震。
 

10月26日 庚申 天晴
  将軍家蹴鞠を御覧ぜんが為永福寺に渡御す。御布衣・御輿なり。路次の御劔は佐原三
  郎左衛門の尉これを持つ。寺門内は駿河の前司義村の所役なり。供奉人は立烏帽子・
  直垂たり。小山の五郎以下、この芸に携わるの輩は布衣を着す。これ相州紅葉の林間
  を点じ、子細を申さる。殊に以て結構の儀有り。子息三郎入道眞照今更召し出さる。
  源式部大夫等祇候するの間、御鞠の後当座の和歌御会有りと。
 

10月30日 甲子 天晴 [明月記]
  伊賀庄の新補地頭押領の事、国事御沙汰有り。周防に申請するに依って、その替わり
  を沙汰せられざるの間、遅々すか。庄の事定毫すでに内々関東に触ると。その僧帰洛
  の後返事を聞く。重ねて仰すべきの由仰せらる。基定卿修理職の事等を申すなり。