1230年 (寛喜2年 庚寅)
 
 

8月1日 庚申 朝間天陰 [明月記]
  西門より気比社司等参集す。北門甚だ以て喧々す。忠弘を喚び造作の事を示す。但し
  知家この事に依って使節として関東に向かうと。
 

8月4日 癸亥 晴
  酉の刻武州の御息女(駿河の次郎妻室)逝す(年二十五)。産前後数十ヶ日悩乱す。
  遂に以て斯くの如し。
 

8月6日 乙丑 朝陰
  午の刻甚雨、晩に及び洪水。河辺の民居流失し、人多く溺死す。古老未だこの例を見
  ずと。
 

8月8日 丁卯 申の刻甚雨大風、夜半に及び休止す
  草木の葉枯れ、偏に冬気の如し。稼穀損亡す。
 

8月12日 辛未 天晴 [明月記]
  有長朝臣示し送る。武蔵の守泰時の息女(時房子息の妻)難産に依って去る四日終命
  す。今暁園城寺南院、中北両院の衆徒の為地を払い焼失す。すでに天下の大事たり。

[皇帝紀抄]
  園城寺中北両院の衆徒南院を焼く。これ年来相論する所の三別所惣領別領の事、近日
  南院骨張るの故と。夜に入り南院の衆徒また中北院を焼く。公家より武士を差し遣わ
  さると。
 

8月13日 壬申 朝より雨降る [明月記]
  園城寺の事落居せざるの間、還御明日たるべく候。当時僧綱召集せられ子細を仰せら
  れ候。両院の衆南院を焼くの後、南院の衆また中北院を焼く。火の間合戦し、両方互
  いに殺害す。武士競向するの間、悪徒退散す。南院の衆少々相残る。両院悉く以て退
  散す。但し余燼堂塔に及ばず、僧房ばかり焼亡すと。武士留居し猶守護すと。
 

8月15日 甲戌
  鶴岡の放生会延引す。この間諸人訪い申すに依って、武州の触穢万方に及ぶ。仍って
  沙汰有り。元仁・嘉禄等の例に任せこれを延引せらる。
 

8月21日 庚辰 陰
  六波羅の飛脚到着す。申して云く、去る十二日卯の刻、園城寺中院・南院の衆徒等坊
  争いに依って、北院の坊舎を焼失しをはんぬ。同日戌の刻、北院の衆徒等多勢を引卒
  し、中南両院を焼く。すでに一日の中三箇院灰燼と為す。学侶皆分散し、智徳各々山
  林に隠遁す。公請断絶の基、専ら朝家の重事たりと。
 

8月28日 丁亥 雨降る
  辰の刻大夫判官信綱使節として上洛す。三井寺衆徒分散の事、尋ね沙汰有るべきが故
  なり。