1231年 (寛喜3年 辛卯)
 
 

9月3日 丙戌 朝陽間晴 [明月記]
  天王寺沙汰し鎮むべきの由関東に仰せらる。武士を遣わし凶徒を召し取る事、悪徒の
  所行すでに以て至極、藁を積み儲け、藁の上に放火するの條、更に下向の武士の進止
  に非ず。仏法最初の寺若くは灰燼と為るか。後悔その詮無かるべし。
 

9月6日 己丑 漢雲遠晴 [明月記]
  巷説に云く、信綱近江を辞すと(東方存旨有るか、悲しむべし)。
 

9月13日 丙申
  今夜御所に於いて和歌御会。基綱・親行・光西等参上すと。
 

9月23日 丙午 晴
  将軍家馬場殿に出御す。流鏑馬・遠笠懸有り。駿河の前司・武藤の次郎の如きの宿老
  等、殊なる仰せに依って射芸を施す。還ってその興有りと。
 

9月24日 丁未 晴
  寅の刻月軒轅第三星を犯すと。
 

9月25日 戊申
  御所に於いて御鞠有り。相模の四郎・同三郎入道・周防の前司・小山五郎右衛門の尉
  ・肥田の八郎・備中法橋定尊等その庭に候すと。また来月一日の蝕御祈りの事、今日
  松殿法印・大進僧都・宰相律師等に仰せらると。三壇の御修法なり。
 

9月27日 庚戌
  日中名越の辺騒動す。敵越後の守の第に打ち入るの由その聞こえ有り。武州評定の座
  より直に向かわしめ給う。相州以下出仕の人々その後に従い同じく駕を馳す。而るに
  越州は他行す。留守侍等彼の南隣に於いて悪党(他所より逃げ来たり隠居す)を搦め
  取るの間、賊徒或いは自殺せしめ或いは防戦を致すと。仍って壮士等を遣わし、路次
  より帰られをはんぬ。盛綱諫め申して云く、重職を帯し給う御身なり。縦え国敵たり
  と雖も、先ず御使を以て左右を聞こし食し、御計有るべき事か。盛綱等を差し遣わさ
  れば、防御の計を廻らしむべし。事を問わず向かわしめ給うの條不可なり。向後もし
  此の如き儀有るべきに於いては、殆ど乱世の基たるべし。また世の謗りを招くべきか
  と。武州答えられて云く、申す所然るべし。但し人の世に在るは、親類を思うが故な
  り。眼前に於いて兄弟を殺害せらる事、豈人の譏りを招くに非ずや。その時は、定め
  て重職の詮無きか。武道は爭か人躰に依らんや。只今越州敵に囲まらるの由これを聞
  く。他人は小事に処すか。兄の思う所、建暦・承久の大敵に違うべからずと。時に駿
  河の前司義村傍らに候しこれを承り、感涙を拭う。盛綱面を垂れ敬屈すと。義村座を
  起つの後御所に参る。御台所に於いてこの事を同伺候の男女に語る。これを聞く者感
  歎の余り、盛綱の諷詞の句・武州の陳謝、その理猶何方に在るやの由、頗る相論に及
  ぶ。遂にこれを決せずと。越州この事を聞き、いよいよ以て帰往す。即ち潛かに誓状
  に載せて云く、子孫に至るまで、武州の流れに対し無貳の忠を抽んで、敢えて凶害を
  挿むべからずと。その状一通は鶴岡別当坊に遣わす。一通は来葉の廃忘に備えんが為、
  家の文書に加うと。
 

9月29日 壬子
  変異の御祈りを行わると。