1231年 (寛喜3年 辛卯)
 
 

10月6日 戊午 霽
  御願寺を建てらるべきの由沙汰有り。その地を永福寺・大慈寺等の内に点ぜらる。両
  国司・駿河の前司・出羽の前司・隠岐入道・信濃民部入道以下、陰陽師三人(泰貞・
  晴賢・重家)を相具し巡検有り。金蔵房をしてこの地に相せしむ。また当座に於いて
  宅磨左近将監為行を召しこれを図絵す。摂津の守師員・駿河判官光村等を以て御所に
  申されをはんぬ。永福寺内の地は、御台所の御願寺料内々これを定めらると。伊賀式
  部入道光西奉行す。
 

10月12日 甲子
  寅の刻地震。今日、安嘉門院の御所並びに神泉苑修理の事その沙汰有り。これ将軍家
  の御役として、先日御家人等に充てられをはんぬ。西国分に於いては、神泉苑の役所
  に漏れるの輩、沙汰を致すべきの旨仰せ出さると。

[百錬抄]
  土御門院配所(阿波の国)に崩御す(御年三十七)。
 

10月16日 戊辰 霽
  二階堂内五大尊堂を建立すべきの地は、本堂の犯土なり。彼の方角を糺すべきの由仰
  せ下さるるの間、周防の前司親實・式部大夫入道光西(御堂奉行)・籐内左衛門の尉
  定員等、陰陽師晴賢已下を相伴い、本堂の後山に挙じ上り、方角を校量す。御所より
  寅と申との間に相当たり、憚り有るべからざるの由一揆せしむ。然れども明年は、王
  相方たるべし。而るに故二位殿の御時、本所に用いらるる所の僧坊一宇これ在り。御
  本所たるべし。彼の坊御堂を立てらるべきの地より乾方に当たるか。猶以て戌方分か
  の由、晴賢これを申す。各々帰参せしめその趣を言上す。戌の刻武州の御第に於いて、
  尾藤右近入道の奉行として、御堂造営日時の定め有り。その後献盃・羞膳有り。親實
  ・光西等その座に候す。
 

10月19日 辛未 雨頻りに降る
  二階堂の御堂の地を改め、甘縄城の太郎の南、千葉の介の北、西山の傍らに点定せら
  る。両国司また巡検し給う。今日橘寺供養の日に相当たり、不吉なりと。仍って陰陽
  道数輩これを召し決せらる。泰貞・晴茂・長重・文元、一同これを申す。件の寺供養
  は寛治五年なり。而るに供養と作事とは各々別事なり。甚だ憚り有るべからずと。ま
  た齋藤兵衛入道浄圓申して云く、辛未の日不吉の所見有りと。彼と云い是と云い御承
  引無し。今日を用いらるるなり。法橋圓全申して云く、粗先規を考うに、辛未の例一
  に非ず。所謂後一條院寛仁四年正月十九日辛未、興福寺阿弥陀堂の御塔柱立て。堀河
  院康和三年七月六日辛未、春日社に於いて一切経供養。同日日吉社に於いて大般若経
  供養。鳥羽院元永元年閏九月十九日辛未、熊野山一切経供養(御幸有り)。崇徳院保
  延二年三月四日辛未、熊野山本宮の五重御塔供養。後鳥羽院元暦元年閏十月十日辛未、
  法皇御願、蓮花王院に於いて万部四巻の御経供養等なりと。
 

10月20日 壬申
  周防の前司親實・伊賀式部入道光西・籐内左衛門の尉定員、泰貞・晴賢等の朝臣を相
  具し、御堂地の方角を看んが為、甘縄に向かう。これ御所より坤方なり。方角その憚
  り無し。作事難有るべからざるの由これを申す。

[百錬抄]
  天王寺別当二品親王甲を被る勇士等を遣わし、悪徒を責め召さる。戦うの間、夭亡の
  輩数有りと。彼の輩去年比より一向法親王の仰せに背き、寺領等寺家使の張行、沙汰
  人を追い出しをはんぬ。今この狼藉に及ぶ。天下の勝事なり。
 

10月25日 丁丑 晴
  晩に及び大風吹く。戌の四刻相州・公文所焼亡す。南風頻りに扇き、東は勝長寿院の
  橋の辺に及び、西は永福寺惣門の内門に至り、烟炎飛ぶが如し。右大将家びに右京兆
  の法華堂・同本尊等灰燼と為す。凡そ人畜の焼死その員を知らず。これ盗人放火の由
  その聞こえ有りと。
 

10月27日 己卯 晴
  相州・武州評定所に参り給う。摂津の守師員・駿河の前司義村・隠岐入道行西・出羽
  の前司家長・民部大夫入道行然・加賀の守康俊・玄蕃の允康連等出仕す。式部大夫入
  道光西・相模大掾業時、法華堂並びに本尊の災事を執り申す。縦え理運の火災たりと
  雖も、関東に於いては尤も怖畏思し食すべきの由、各々意見状を進す。同造営の事評
  定を経らるるの処、師員・行西・康連が如き、墳墓堂等炎上の時、再興の例無きの由
  これを申すに依って、御助成有り、寺家に仰すべきの旨議定すと。また両御願寺新造
  の事、この火災に依って延引す。第一の徳政たるの由世以て謳歌すと。
 

10月28日 庚申 晴
  去る十二日土御門院阿波の国に於いて崩御(春秋三十七)の由、京都よりこれを申さ
  る。

[百錬抄]
  今上第一親王皇太子(秀仁)と為す。