1232年 (寛喜4年、4月2日 改元 貞永元年 壬辰)
 
 

3月2日 [百錬抄]
  巳の刻、東大寺並びに元興寺の塔、春日社の塔雷火出来す。一時の間三所の火直事に
  非ざるなり。各々撲滅すと。
 

3月3日 甲申 晴
  鶴岡宮恒例の神事たるに依って、午の一点将軍家御参宮有らんと欲す。而るに御祓い
  の陰陽師遅参するの故、御出を抑えらる。この間京都の飛脚到着す。去る月二十七日
  御上階(従三位、中将元の如し)の聞書を持参す。仍って両国司参り給う。爰に今日
  の御参宮を以て、拝賀に准えらるるの由仰せ有り。日次の事條々沙汰を経らる。師員
  ・季氏等申して云く、拝賀は強ち最上吉を撰ばず。今日神事を以て先と為さるるの日
  なり。何の憚り有らんやと。茲に因って治定しをはんぬ。凡そ上吉は当日慶びを奏す。
  中吉は三箇日中の宜日を用ゆ。殊に日次を撰ぶは、近代の法なり。その後御車を改め、
  先日到着の毛車を寄せらる。当座に御榻役を差さる。対馬蔵人仲尚これを献る。御劔
  はまたその仁を撰ばる。先の役人を改め、式部大夫政村朝臣に仰す。この儀式に依っ
  て時刻推移す。未の二点に及び西廊に御出で。前の大膳の亮泰貞朝臣(衣冠)を召し、
  故に反閇を勤むべきの旨仰せらる。泰貞無官の由頻りにこれを辞し申すと雖も、用い
  られをはんぬ。左近大夫将監佐房を以て禄(五衣)を賜う。その後御出で。相州已下
  供奉人済々焉たり。宮寺に於いて法華経供養、御聴聞。導師は頓覺坊律師良喜なり。
  供奉の諸大夫等を以て御布施等を曳かる。舞楽例の如し。晩に及び還御す。
 

3月7日 [皇帝紀抄]
  夜、盗人大学寮の廟倉に入り、御影二十一舗を取り奉ると。
 

3月9日 庚寅
  伊豆の国仁科庄の土民等、飢饉に依って餓死に及ぶの間、意ならず農業の計を抛つの
  由、武州の御方に愁い申す。仍って出挙三十石を下し行うべし。もし彼等弁償せざれ
  ば、御沙汰として糺返せらるべきの由、また矢田六郎兵衛の尉に仰せらる。この事す
  でに数度に及ぶと。
 

3月13日 甲午
  天変の御祈り等これを行わる。
 

3月14日 乙未 天晴
  月蝕正現せず。
 

3月15日 丙申
  権大僧都観基入滅す。大宮大進行頼の孫、土佐の守源国基の子なり。去る承久元年将
  軍家の御持僧として下向すと。
 

3月19日 庚子
  御所に於いて、六口の上綱を屈し大般若経を転読せらる。これ将軍家今年太一の御厄
  に当たらしむの上、世上の御祈念と。
 

3月25日 丙午 晴
  御所の大般若経結願すと。