7月8日 丁亥 天晴
今暁寅の刻太白東井を犯す。これ安徳天皇西海に没し給い、宝剣紛失の時の変なり。
天子船を浮かべ、珍宝を失う文の由、天文道これを申すと。
7月10日 己丑 霽
政道無私を表わさんが為、評定衆を召され、起請文を連署す。その衆十一人たり。
摂津の守中原師員 前の駿河の守平義村
沙彌行西(隠岐の守) 前の出羽の守藤原家長
加賀の守三善康俊 沙彌行然(民部大夫)
左衛門の少尉藤原基綱 大和の守三善倫重
玄蕃の允同康連 相模の大掾藤原業時
沙彌浄圓(左兵衛の尉)
相州・武州理非決断の職として、猶署判をこの起請に加えしめ給うと。
**起請[鎌倉幕府法]
御評定の間理非決断の事
右くたんの身れうけんの及さるによて、若旨趣さうゐの事更に心のまかる所にあらす、
その外或は人の方人として、道理の旨を知なから無理のよしを称申、又非據たる事せ
うせきありと号し、人の短をあらはさヽ覧かために、子細を知らしめなから善悪に付
てこれ申さすは、意と事と相違し、後日の紕謬出来らんか、凡そ評定の間理非にをい
て親疎あるへからす、好悪あるへからす、只道理のをす所心中の存知、傍輩をはヽか
らす、権門をおそれす、詞を出すへきなり、御成敗事ぎれ條々縦道理に違せすといふ
とも一同の憲法也、誤て非據を行はるヽといふとも一同の越度也、自今以後訴人并に
其縁者に相向ひ、自身は道理を存すといへとも、傍輩の中其人の説をもて違乱をいた
すよし、その聞へあらは已に一味の義にあらす、殆諸人の嘲をのこさんか、兼又評定
衆の中一行をかきあたへられは、自余の計皆以無道のよし独これを存せらるヽに似た
るか、條々子細かくのことし、もし一事たりといふとも、曲折を存し違犯せしめは、
梵天・帝釈・四天王、惣して日本六十余州の大小の神祇、殊には伊豆・筥根両所の権
現・三嶋の大明神・八幡大菩薩・天満大自在天神、ぶるいけんそく神罰冥罰各まかり
かうぶるへき者也、依起請如件、
貞永元年七月十日
沙 彌 浄圓
相模大掾藤原 業時
玄蕃允三善 康連
左衛門尉藤原朝臣 基綱
沙 彌 行然
散位三善朝臣 倫重
加賀守三善朝臣 康俊
沙 彌 行西
前出羽守藤原朝臣 家長
前駿河守平朝臣 義村
摂津守中原朝臣 師員
武蔵守平朝臣 泰時
相模守平朝臣 時房
7月11日 庚寅
鶴岡八幡宮西の廻廊、南より第四間に死人(十四五歳ばかりの童)有るの由、宮寺こ
れを申す。
7月12日 辛卯 晴
将軍家今度御不例の時、鶴岡宮に於いて臨時祭を行うべきの由御心願有り。来十七日
を以てその日に点ぜらるるの処、昨日宮中蝕穢出来す。仍って憚り有るべきや否や、
周防の前司の奉行として陰陽道に問わる。病事を慎ましめ給うべし。凡そ宮寺慎み有
るべきの由これを占い申す。三十日穢たるべきかと。相州・武州・摂津の守・駿河の
前司・隠岐入道・加賀の守・信乃民部大夫入道・後藤大夫判官・大和の守・玄蕃の允
等評定有り。臨時祭の事彼の穢に依って延引すべきか、将又遂行せられずと雖も、そ
の難有るべからざるかの両段なり。一向停止せらるべきの由治定すと。この事夢想の
告げ有るの旨、兼日或る人これを申すと。今日、勧進聖人往阿弥陀仏の申請に就いて、
舟船着岸の煩い無からんが為、和賀江嶋を築くべきの由と。武州殊に御歓喜、合力せ
しめ給う。諸人また助成すと。
7月15日 甲午 陰
勝長寿院の一切経会、御意願有るに依って、舞楽等殊にその儀を刷わる。将軍家(御
直衣・車)御出で。相模の五郎時直御劔を役す。越後の守・陸奥式部大夫・民部少輔
・上野の介・和泉の守・後藤大夫判官・伊東大夫判官・宇佐美大夫判官・駿河の次郎
・同四郎左衛門の尉・佐々木四郎左衛門の尉等供奉すと。今日和賀江嶋を築き始む。
平三郎左衛門の尉盛綱行き向かうと。
7月23日 壬寅
御所に於いて相撲六番を召し決す。将軍家御衣を脱ぎ纏頭せしめ給う。民部少輔・右
近蔵人親光等これを取ると。
7月27日 丙午
御台所御方違えの為駿河入道行阿の家に渡御す。これ故左金吾将軍追善の奉為、伽藍
を造立せらるべきに依ってなり。その地勝長寿院内の弁阿闍梨房鎮と。但しこの地然
るべからず。法華堂の下猶宜しかるべきの由、重ねてその沙汰出来す。委細尋ね聞こ
し食すに依ってなり。
7月28日 丁未
御台所の御方陰陽師七人を召し禄(帷等と)を賜う。これ御堂地の事仰せ合わさるる
の次いでなり。大和籐左衛門の尉久良奉行たりと。