1232年 (寛喜4年、4月2日 改元 貞永元年 壬辰)
 
 

8月6日 甲寅
  御台所御方違えの事、駿河入道の家本所の方角に叶うべからず。東御所を用いらるべ
  きの由その沙汰有りと。久良これを奉行す。
 

8月8日 丙辰
  御台所精舎造営の為、今夜より東御所に御坐す。百四十五日の御方違えなり。
 

8月9日 丁巳 晴
  和賀江嶋その功を終ゆ。仍って尾藤左近入道・平三郎左衛門の尉・諏方兵衛の尉御使
  として巡検すと。
 

8月10日 戊午 霽
  御台所御願の堂舎建立の日時これを定めらる。また武州造らしめ給う御成敗式目その
  篇を終えらる。五十箇條なり。今日以後訴論の是非は、固くこの法を守り、裁許せら
  るべきの由定めらると。これ則ち淡海公の律令に比ぶべきか。彼は海内の亀鏡、これ
  は関東の鴻宝なり。元正天皇の御宇養老二年戊午、淡海公律令を撰ばしめ給うと。
 

8月13日 辛酉
  評定。殿下の御領摂津の国垂水西御牧の内萱野郷に犯過人有り。守護所に召し渡さる
  べきの由、左大弁宰相に示し達すべきの趣、今日六波羅に仰せらる。凡そ強盗・夜討
  ちの凶賊等の事、権門領たりと雖も、使の入部無しと雖も、守護所に召し渡すべきの
  旨治定先にをはんぬ。而るに使の廰に出すべきの由、庄司等存知せしむと。向後は然
  るべからざるの由と。筑後の前司資頼入道(法名是佛)鎮西奉行を辞す事、彼の状去
  る比到着す。今日その沙汰有り。石見左衛門の尉資能を以てその替わりに補せらると。
 

8月15日 癸亥 小雨降る
  鶴岡の放生会。将軍家御出例の如し。民部少輔有時御劔を役す。供奉の廷尉五人に及
  ぶ。関東に於いて未だ例有らず。基綱・祐時・祐政(已上五位)・盛時・光村(已上
  六位)等なり。
 

8月16日 甲子 霽
  将軍家また御参宮。御台所御桟敷。盛時・光村等埒の辺に候す。盛時家子(布衣)一
  人を具す。光村小節箭を負い家子(布衣)三人を具す(各郎等四人、雑色二人、童火
  長二人、調度懸け各一人)。馬場の儀例の如し。而るを競馬の時兵衛の尉景氏・土肥
  左衛門の尉義綱等有りこれを召し決せらる。景氏を以て勝たしむべきの由御祈祷に及
  ぶの処、御本意の如しと。