1233年 (貞永2年、4月15日 改元 天福元年 癸巳)
 
 

9月13日 甲寅 晴
  今夜雲月明を収む。武州の御亭に於いて和歌御会有り。これ密々の儀なり。親行・基
  綱等その座に候す。
 

9月18日 己未
  駿河の次郎泰村使節として上洛す。これ藻壁門院御懐孕の間、聊か御悩の由その聞こ
  え有るに依ってなり。

[明月記]
  御産成りをはんぬ。感悦の処重ねて尋ね申す。使い帰りて云く、今一事遅々し御う。
  また男女の御事聞かずと。推して皇女か。(略)雑人等漸く御絶入の由を称す。この
  事を聞きすでに以て憑み無き事か。今年二十九その悲しみに堪えず。
 

9月24日 乙丑 霽
  京都の飛脚参着す。申して云く、去る十八日卯の刻、院の御所に於いて藻壁門院皇子
  降誕す(死体)。辰の刻女院御絶入、遂に以て崩御す。年二十五と。これ将軍家の御
  姉公なり。この事に依って政務三十ヶ日閣かるべきの由これを定めらると。
 

9月27日 戊辰
  伊賀馬の助女院の御事に依って使節として上洛す。而るに今日頓病の間、療治を加え
  んが為浜の辺に逗留すと。
 

9月28日 己巳
  女院中陰の御仏事用途の事、諸御家人に宛らる。十月十日以前京都に進すべきの旨仰
  せ下さると。
 

9月29日 庚午
  伊賀馬の助今日首途す。安東左衛門の尉光成武州の御使として同じく以て上洛す。こ
  れまた女院崩御の事殊に愁歎するの由、仙洞並びに北白河院に言上せしめ給うが故な
  り。