1233年 (貞永2年、4月15日 改元 天福元年 癸巳)
 
 

10月5日 丙子 天晴 [明月記]
  昨夜法勝寺の圓堂、群盗乱入し破壊す。未だ検知に及ばず。今朝仁和寺宮馳参せしめ
  給うべしと。本願御安置以後、未だ開闢せられざる本尊なり。
 

10月11日 壬午 夜月明、暁より俄に甚雨 [明月記]
  辰の刻ばかり頭を洗う。午の時與心房来たり給う。(略)衣帽を取り左右の髪を分つ。
  先首要文を授けらる。戒師頂を剃り給う。次いで靜俊左頭を剃りをはんぬ。次いで右
  を剃る。(略)南面に戒師袈裟を取り、誦文を授けらる。これを載せ返し奉る。三度
  此の如し。次いでこれを着し仏前に参る。戒師礼盤に着し戒を授けられをはんぬ。形
  の如く布施を奉る(賢寂桑絲五疋細櫃に入る)。
 

10月15日 丙戌 朝陽出 [明月記]
  申の始めばかり金吾来たり。大殿の御使として参院す。圓堂の盗露顕の事と。賢寂従
  者の男、市に出て金銅を売る者を見る。搦め取り俊親の宅に行きこれに問わしむ。果
  たして承伏す。使盗を重時の許に送る。信綱時刻を廻らさず、武士を近江の国に遣わ
  しこれを搦むと。
 

10月19日 庚寅 晴
  戌の刻伊賀右馬の助並びに駿河の次郎等京都より下着す。騎旅の行粧を改めず御所に
  参る。御返事に申すの趣、去る月十八日女院崩御。同二十四日諒闇の宣旨下さる。三
  十日丑の刻御葬(庇御車を用いらる)、供奉の月卿雲客済々焉たり。或いは衣冠或い
  は布衣、皆歩儀なりと。また京極中納言(定家卿)の書状武州の御方に到来す。去る
  十一日落餝と(法名明静)。
 

10月22日 癸巳 天晴 [明月記]
  午の時ばかり金吾来たり。関東大殿の北政所御遁世を申し止むと。
 

10月26日 丁酉 天晴 [明月記]
  今日北政所御事と。