1233年 (貞永2年、4月15日 改元 天福元年 癸巳)
 
 

12月2日 壬申 天晴 [明月記]
  昏に臨み迎蓮来たる。明後日関東に赴き、明年秋帰るべしと。
 

12月6日 丙子 朝陽晴 [明月記]
  巳の時ばかり與心房来たり談り給うの次いでに聞く。左中将源通時、十一月二十三日
  関東に於いて終命す。姉妹姫君・春日局、今度の除目に頭に補せらるべきの由告げ送
  る。使い到着せざるに死去すと。運の拙人力に非ざる事か。大臣孫、大納言三男なり。
  五十余。義時の聟たり。而るを義村頻りに挙す。遂に公卿の名を仮りず。悲しむべき
  事か。
 

12月12日 壬午 陰
  南御堂に於いて八万四千基塔を供養せらる。導師は内大臣僧都定親(弁僧正の弟子、
  通親卿息)、開眼の呪願は弁僧正定豪。将軍家御出で(御直垂)。御台所御同車。相
  州・武州参り給う。
 

12月28日 戊戌 晴
  将軍家(御布衣)御方違えの為竹の御所に入御す。御台所御同車と。
 

12月29日 己亥
  陸奥の五郎の子息小童(年十)、武州の御亭に於いて元服す。太郎實時と号す。駿河
  の前司の如き座に在り。一事以上亭主の御経営なり。即ちまた加冠を為す。これ兼日
  の構えに非ず。所存有りて俄にこの儀に及ぶの由仰せらると。