7月6日 癸卯
家司等に仰せ起請を召す。これ奉行の事、親疎を謂わず貴賤を論ぜず、各々正儀を存
じ、沙汰を致すべきの趣なり。その衆十七人、
前の山城の守藤原秀朝 前の山城の守中原盛長 散位大江以康
散位三善康持 民部大丞三善康連 中務の丞大江俊行
弾正忠大江以基 大膳の進大江盛行 左衛門の尉惟宗重通
兵庫の允三善倫忠 藤原頼俊 沙弥行忍
惟宗行通 三善康政(康宗と改む)
7月12日 己酉 朝天快晴 [明月記]
定修今月朔の書状到来す。将軍家産の御祈り、修法十三壇五度、延引の事煩い多し。
去る二十六日朝、義時朝臣五郎の男(實有卿実の一腹)誤って腹を突き切り度々絶入
す。或いは狂気自害の聞こえと。当時験者これを祈る。また小怪異・妖言等有りと。
竊に以てこの一門年々六月毎に事有り。直也事のみにあらざるか。
7月23日 庚申 朝天遠晴 [明月記]
巳の時ばかり覺法印来たり談る。この次いでに聞く。関東知宗違勅の由を聞き披らき、
件の所の地頭に玄亜相の室を補す。仍ってその庄廰に付けらる。知宗五衰現れをはん
ぬるの由禅室に談られると。違勅の放光頗る是非の処不審を散じをはんぬ。
7月26日 癸亥
御台所御産所に移らしむ(相州の第)。供奉の人々数輩。相州の亭に渡御するの後、
子の刻に及び御産氣有り。廷尉定員鳴弦の役人を催す。十人参進す(各々白の直垂・
立烏帽子)。
左近蔵人 城の太郎 上野七郎左衛門の尉
駿河五郎左衛門の尉 近江三郎兵衛の尉 三浦の又太郎
伊東三郎左衛門の尉 葛西新左衛門の尉 中條左衛門の尉
和泉二郎左衛門の尉
7月27日 甲子
寅の刻御産(兒死して生まれ給う)。御加持は弁僧正定豪と。御産以後御悩乱。辰の
刻遷化す(御歳三十二)。これ正治将軍の姫君なり。