1235年 (文暦2年、9月19日 改元 嘉禎元年 乙未)
 
 

1月1日 乙未
  椀飯(相州御沙汰)。御劔は駿河の前司義村これを持参す。御弓箭は出羽の前司家長、
  御行騰は相模式部大夫。

[明月記]
  午の時ばかり金吾武州の仮名状を送る(権の佐に勅すは感悦の由なり)。
 

1月2日 丙申
  椀飯(武州御沙汰)。御劔は陸奥式部大夫、御調度は駿河の次郎、御行騰は越後の太
  郎。
 

1月3日 丁酉
  椀飯(越州御沙汰)。御劔は駿河の前司、御調度は加賀の守、御行騰は城の太郎。

[明月記]
  今日修理の亮(泰綱)冷泉に来たり。馬五疋を引く(二疋の外、子息三人各一疋)。
  金吾また馬一疋を与う。
 

1月5日 己亥
  将軍家御方違えの事御沙汰を経らると。
 

1月9日 癸卯 霽
  将軍家節分の御方違え、越後の守の名越亭に入御す。この宿所始めて入御するの間、
  事毎に花美を尽くす。
 

1月12日 丙午 快霽
  将軍家鶴岡八幡宮に御参り(御束帯・御車)。佐原新左衛門の尉御劔を持つ。摂津左
  衛門の尉御調度を懸く。今夜、御方違えの為、周防の前司親實の大倉の家に入御す。
  これ大将軍王相方の御方違えたるなり。春の間十五日に一度渡御有るべきなり。
 

1月15日 己酉
  五大尊堂の門の木作り始めなり。来月十日堂舎を立てらるべきに依って、先にこの沙
  汰有り。周防の前司親實・摂津左衛門の尉為光これを奉行す。
 

1月20日 甲寅
  将軍家御方違えの為周防の前司親實の大倉の家に入御す。明日五大堂の門を立てらる
  べきに依って、太一方を違えしめ給うと。而るにこれに先だち、御方違えの方角の事
  に就いて、前の漏刻博士宣友申す旨有り。仍って御出以前に、小御所の東面に於いて
  直にこれを召し決せらる。忠尚・親職・晴賢・文元等、渡殿透廊の北縁に候す。宣友
  申して云く、遊年方大将軍王相に與うこと、各別謂われ無しと。忠尚等云く、各別の
  事なり。越州の亭は、御遊年方を違えしめ御わんが為、周防の前司の家は、旧年より
  御本所として御方を違えられをはんぬと。
 

1月21日 乙卯
  御願の五大堂建立の事、相州・武州度々巡検し鎌倉中の勝地を撰ばる。去年城の太郎
  の甘縄の地を定めらると雖も、猶御意相叶わず。頗る思し食し煩うの処、幕府の鬼門
  方に相当たりこの地有り。毛利蔵人大夫入道西阿の領なり。御祈祷相応の所たるに依
  ってこれを点ぜらる。即ち地を引かれをはんぬ。仍って今日先ず惣門ばかりこれを建
  てらる。相州・武州・大膳権大夫以下数輩相向かわる。伊賀式部入道光西・清判官季
  氏等これを奉行す。
 

1月26日 庚申
  今夜、御方違えの為周防の前司親實の大倉の家に入御す。この所に於いて庚申御会有
  り。二首の和歌を講ぜらる。題は竹間鶯・寄松祝。石山侍従・河内の前司光行入道・
  大夫判官基綱・式部大夫入道光西・東の六郎行胤等懐紙を進すと。
 

1月27日 辛酉
  鎌倉中僧徒の兵仗を禁断せらると。

[明月記]
  今朝伝聞、金吾昨日西八條の関東後家の八講所に向かう(この事僻事と)。夜前八條
  頼重の宅に宿す。今日猶向かうべしと。
 

1月28日 壬戌 夜より微雨降る [明月記]
  昨日大殿の仰せに依って西八條の八講に向かう。家光・資頼・有親・公長・知宗・師
  季卿・有教・能忠・家定・實任朝臣已下諸大夫等、明斎・貞雲・降承・顕親、凡僧四
  口と。