1235年 (文暦2年、9月19日 改元 嘉禎元年 乙未)
 
 

2月3日 丙寅
  五大尊堂の地に於いて土公祭を始行せらる。陰陽道相替わり連日奉仕すべきの由と。
 

2月4日 丁卯
  五大堂の地に於いて社を崇めらるべきの由、その沙汰有り。唐門外に勧請し奉るべき
  の由、兼日思し食さるるの処、その地狭少の間、相州・武州並びに大膳権大夫・駿河
  の前司等件の地に参会し、各々評議を加う。門内に卜せらるべきか。また堂の後山を
  点ぜらるべきか。意見区々なり。但し山は堂地より高所なり。何様たるべきやの由、
  有職並びに陰陽道に仰せ合わさる。仍って此の如き惣社の地の事、所処の例を訪うに、
  強ち高下を撰ぶに及ばず。宜しく地形に依るべきの由、河内入道光行・親職・晴賢等
  一同これを申す。この上沙汰有り。堂東の地を以てその所に定むべしと。
 

2月9日 壬申
  将軍家後藤大夫判官基綱の大倉の宅に入御す。御水干・御騎馬なり。陸奥式部大夫・
  相模式部大夫・前の民部少輔・駿河の前司・伊東大夫判官・駿河大夫判官等供奉す。
  五位は水干、六位は直垂・立烏帽子。上野七郎左衛門の尉・同五郎・武田の六郎、以
  上三人甲を着し最末に候す。今夜彼の家に御止宿。遊興一に非ず。先ず御的、次いで
  小笠懸、次いで御鞠、次いで御酒宴・管弦、夜に入り和歌御会と。相州・武州参り給
  う。
  御的の射手、
   一番 三浦駿河の次郎    岡邊左衛門四郎
   二番 佐々木八郎左衛門の尉 神地の四郎
   三番 武田の六郎      横溝の六郎
  小笠懸
   相模式部大夫        駿河の次郎
   小山五郎左衛門の尉     相模の五郎
   近江三郎左衛門の尉     佐々木八郎左衛門の尉
   横溝の六郎         宇都宮四郎左衛門の尉
   武田の六郎         上総の介太郎
 

2月10日 癸酉 天晴、風静まる
  将軍家基綱の家より五大尊堂の地に渡御す。相州・武州・大膳大夫・駿河の前司・長
  井左衛門大夫・出羽の前司・加賀の守以下供奉す。今日御堂を立てらる。親職・晴賢
  ・文元等の朝臣参進し、時刻の事を申す。午の刻に及びその儀有り。大工は矢坂次郎
  大夫なり。引頭四人参上す。事終わり大工等禄を賜う。判官代大夫隆邦・清判官季氏
  等奉行たり。
  大工分
   馬二疋
   一の御馬(鹿毛、鞍を置く) 野内太郎兵衛の尉  同次郎これを引く
   二の御馬(黒葦毛)     本間次郎左衛門の尉 同四郎
   十物十種
    絹十疋  染絹十端 綿十両  白布十端 藍摺十段 奥布十段
    直垂紺十 帷紺十  色革十枚
  引頭分
   馬一疋
   五物五種
    絹五疋  白布五段 直垂紺五 帷紺五  奥布五段
     以上人別に定む。
  この外檜皮大工・壁塗・鍛冶等、各々馬一疋を給う。馬は、両国司並びに駿河の前司
  ・小山下野入道・千葉の介等の所進、以下皆政所の沙汰なり。
 

2月15日 戊寅
  御所の南面に於いて涅槃経の論議を行わる。
  僧衆八人
   光寶法印  兼盛法印  定親僧都  頼兼僧都
   憲清僧都  定清律師  審範已講  定修阿闍梨
  晩景事終わり、布施有り。左近大夫将監佐房・左近蔵人親光・駿河蔵人等これを取る。
 

2月17日 庚辰 天晴 [明月記]
  戌の時ばかり冷泉の姫君俄に病脳の由下人来たり告ぐ。助里尾張の尼奔行す。帰りて
  云く、雀乱危急の如し。與心房来たり給う。在友朝臣来たり占う。別事無きの由示す
  の間即ち例に復す。
 

2月18日 辛巳 霽
  弁僧正定豪、本坊に於いて一切経を供養す。導師は興福寺の東南院法印公宴、呪願は
  大蔵卿法印良信なり。将軍家御結縁の為出御す(御輿)。武藤左近将監御劔を役す。
  相州・武州已下供奉す。

[玉蘂]
  大膳権大夫師貞来たり。去る比上洛す。関東条々申す旨有り。定高卿申次たり。
 

2月22日 乙酉 朝より天陰 [明月記]
  殿下昨日より腹病御悩。人々並参す。大殿御渡り。今朝猶不快に御す。
 

2月28日 辛卯 朝陽快晴 [明月記]
  今日殿下第三度の御上表の次いでに、大臣御解退と。