1235年 (文暦2年、9月19日 改元 嘉禎元年 乙未)
 
 

8月8日 戊戌 [百錬抄]
  高信豊後の国に配す。神輿を禦ぎ奉るの先陣の武士右衛門の尉遠政備後の国に配しを
  はんぬ
 

8月14日 甲辰 晴陰不定
  卯の刻将軍家鶴岡に御参り。浄衣を着し給う。御台所御周関の後御参宮始めなり。明
  後日放生会の御参を以て、通用せらるべし。重日たるに依って先ずこの儀に及ぶと。
 

8月15日 乙巳 霽
  鶴岡の放生会。将軍家御出で。
 

8月16日 丙午 晴
  馬場の儀例の如し。御参宮三箇日相続くものなり。昨今供奉の官人光村・定員等なり。
 

8月18日 戊申
  舞人多の好氏鎌倉に在るの処、帰洛せしむべきの旨、殿下より申せらるるの間、差し
  進せらるる所なり。則ち将軍家御自筆を染め、御請文を申せしめ給う。また御馬一疋
  (白鹿毛)好氏に賜う。両三年に一度、放生会の時参仕すべきの由、木工権の頭を以
  て好氏に仰せ含めらると。
 

8月21日 辛亥
  相州・武州御所に参らる。各々御厩侍の上東蔀の間に着せしめ給う。評定衆参上す。
  師員・家長・康俊は南座(東上)に候す。西阿・義村・行西は北方に候す。将軍簾中
  に御坐す。加藤七郎左衛門の尉景義と兄加藤判官景朝と、伊豆の国狩野庄の内牧郷地
  頭職相論の事に就いて、一決を遂ぐ。兄は南方末席に召さる。舎弟は同じく北の対座
  に在り。図書の允清時の奉行として子細を問わる。景義訴え申して云く、当郷は、伯
  父故伊勢の前司光員の所領なり。承久三年五月三十日亡父景廉これを拝領す。但し仰
  せに依って、暫く叔父覺蓮をして領知せしむものなり。彼の一期の後は、景廉の契状
  に任せ、景義領掌すべきの処、景朝義絶の身を顧みず、恣に押領せしむ。早く糺返せ
  らるべしてえり。景朝陳じ申して云く、当郷は、二位家の御時景朝の相伝せしむべき
  の趣、兼日御書に預かるの上は、知行何事か有らんや。亡父の為義絶せらるる事、景
  義の虚誕なり。過言の科に処せらるべしてえり。評定を凝らされ、景義の申す所子細
  有るの旨、衆議一揆せしむ。而るに景朝二位家の御遺書を進覧す。狩野牧に於いては、
  覺蓮房の後景朝に賜うべきの由、分明の旨に任せ、景朝に付けらるる所なり。二位家
  の御時の御教書棄て置かるるの條、その恐れ有るの由、泰時朝臣申請するに依って、
  景朝を補任せらるるの旨、即ち御下文に載せらると。