1235年 (文暦2年、9月19日 改元 嘉禎元年 乙未)
 
 

9月1日 辛酉 霽
  子の刻右大将軍家法華堂前の湯屋失火す。風頻りに吹き、法華堂頗るこの災を免かれ
  難きの処、諏方兵衛の尉盛重一人最前に馳せ向かい、中間の民屋数十宇を壊しむるの
  間、火止まりをはんぬ。
 

9月2日 壬戌
  去る夜法華堂に於いて火災無きの條、偏に諏方の高名に在るの由、武州感歎せしめ給
  う。仍って御恩に浴すと。
 

9月10日 庚午
  長尾三郎兵衛の尉光景、度々勲功を致すと雖も未だ恩賞に預からざる事、駿河の前司
  義村並びに同次郎泰村、恩澤奉行後藤大夫判官基綱に属き、頻りにこれを執り申す。
  仍って沙汰有り。勧賞有るべきの旨基綱に仰せ付けらると。而るに鎮西の強盗人有り。
  彼の所領召し放たれば賜うべきの旨、義村上覧状に注しこれを申す。未断の闕所を望
  むべからざるの趣、近年式條に載せらるると雖も、評定衆として、今この儀に及ぶ。
  人以て甘心せずと。彼の光景は、建暦三年義盛叛逆の時、十三歳の小童たりと雖も、
  北御門の搦手に向かい防戦を励まし、矢多く腹巻に射立てらる。また承久兵乱は泰村
  に相具し、宇治橋の手に於いて軍忠を竭くすと。
 

9月19日 己卯 [百錬抄]
  改元の事有り(嘉禎)。
 

9月24日 甲申 霽
  戌の刻資俊御所に参り、申して云く、今夜五更坤星南北三尺ばかり、順逆行、圓座の
  如く旋る。希代の異たりと。仍って将軍家東面の渡廊に出御す。忠尚・親職等の朝臣
  を召し、窺い定むべきの由仰せ下さる。暁更に及び、彼等申して云く、これを窺うと
  雖も一切その変無し。但し今夜風吹くの間、諸星の光揺らぐなりと。
 

9月29日 己丑
  子の刻地震。