1236年 (嘉禎2年 丙申)
 
 

7月10日 乙巳 晴
  新御所の門々を建てらる。今日、大膳権大夫師員・伊賀式部大夫入道光西・籐内大夫
  判官定員等の奉行として、御所に於いて、新御所御移徙の間の事その沙汰有り。また
  陰陽師等を召し聚む。忠尚・定昌・泰貞・晴賢・宣友・晴茂・宣賢・廣資・国継西廊
  の縁に参進す。一の座より次第に尋ね仰せられて云く、来月四日新御所御移徙たるべ
  きなり。先ず白地に武州亭に入御有り。件の亭より御移徙の條、大将軍方の禁憚るべ
  きや否や計り申すべしてえり。定昌・泰貞・晴賢・宣友以下申して云く、これ白地の
  儀なり。方禁移るべからず。更に憚り無し。且つは王相方は当時の御所より御沙汰有
  るべき御事なりてえり。陰陽の助忠尚朝臣・前の主計の助廣資、甘心せざるの由を申
  すと雖も、数輩一同するの上、左右に能わずと。これ当時の御所(生西の家)は半作
  の間、未だ門立織戸無し。仍ってこれより御移徙の為御出有るの條、その礼整うべか
  らず。武州の御亭よりの御出は、殊に御本意たりと。
 

7月17日 壬申
  佐々木近江次郎左衛門の尉高信と日吉の神人と喧嘩の事に依って、神輿頂戴の張本を
  召し出さるべきの由、武州頻りに申し行わると雖も、召さるべからざるの旨、山徒確
  執蜂起するの間、今日重ねて御沙汰を経られ、座主宮に申せらると。高信並びに神輿
  を防ぎ留め奉らんと欲するの勇士等は、衆徒の訴訟に就いて、即ち流刑に処せられを
  はんぬ。これ追って張本を召さるるは、専ら後昆を誡められんが為なり。仍って両門
  已下の交名を注出す。俄に無道の衆会を成すの間、縦え堂社に閉じ籠もらしむと雖も、
  自らの業罪の報いたるべきの由評議に及ぶ。情言有らば、諷諫を加えらるべきの趣仰
  せ遣わさる。且つは承久京方の徒、諸社の別当・祠官に至るまで、分々の罪科一々こ
  れを遁れず。而るに山僧の張本は傍輩に超えると雖も、終に以てこれを宥む。豈宥恕
  を施すに非ざるや。今度の張本に於いては、旁々その咎を免がれ難きの由、御教書に
  載せらると。また信濃の国善光寺地頭職の事、右大将家の御時、淡路の前司宗政申請
  するに依ってこれを補任すと雖も、その煩い有るの由、寺僧訴訟に及ぶの間、承元四
  年八月十一日これを止められをはんぬ。而るに猶宗政代官等張行せしむの由、住僧愁
  い申すに就いて、停止せしむべきの旨仰せ下さると。
 

7月24日 己卯
  南都騒動の間、在京人並びに近国の輩、一族を催し具し警衛の忠を抽んずべきの旨、
  仰せ下され先にをはんぬ。一類相従わざるの由、近日諸家よりその訴え出来するに依
  って、向後は大番以下此の如き役、早く一門の家督に相従うべきの旨、今日重ねてこ
  れを定めらる。図書左衛門の尉奉行たり。今日御移徙の事またその沙汰有り。武州亭
  西妻に三日の夜御一宿有るべしと。
 

7月25日 庚辰
  石清水領讃岐の国本山庄、足立木工の助遠親知行の地頭職を止めらる。一円宮寺に付
  けらると。
 

7月28日 癸未 [百錬抄]
  春日の神木興福寺金堂に入御す。南都去年より以来八幡宮と訴訟す。未だ宿意を達せ
  ず。世の為不便か。