1236年 (嘉禎2年 丙申)
 
 

8月3日 丁亥 霽
  戌の刻新御所に於いて鎮御祈りを行わる。大歳八神(泰貞朝臣)、宅鎮(晴賢)、大
  土公(晴茂)、大将軍(宣賢)、王相(国継)、井霊(廣資)、厩鎮(道氏)。七十二星
  鎮・西岳真人鎮は忠尚朝臣里亭に於いて勤行するの後、鎮物を持参するの処、伊賀六
  郎右衛門の尉を以て仰せられて云く、本御所新造の時、この両鎮は、故国道朝臣御所
  に於いて勤行す。而るに今私宿に於いて勤行すること然るべからずと。忠尚申すの旨
  無く退出すと。
 

8月4日 戊子 天晴、風静まる
  戌の刻将軍家若宮大路新造の御所に御移徙なり。武州の御亭より渡御す(御束帯、御
  乗車)。前の大監物文元に仰せ、轅の内に参り反閇を勤む。新御所南門より入御す。
  御車門内に入り、二丈余を経るの後下り御う。安藝右馬の助御榻を役す。木工権の頭
  御沓を献る。前の民部権の少輔親實御裾を取る。備中左近大夫・美作の前司等松明を
  取る。二條侍従教定・一條大夫能清等予め階下に候す。先ず黄牛を牽く。押垂三郎左
  衛門の尉晴基・野本の太郎時秀等これを役す(牛童一人相副う)。次いで水火の役人
  参進す。水は壱岐五郎左衛門の尉行方、火は伊賀六郎左衛門の尉光重等なり。次いで
  陰陽の助忠尚朝臣(束帯)反閇に候す。庭中に於いて呪詞を唱う。西廊に昇り、二棟
  御所の南縁を経て、寝殿(五間四面)の南面中の間に入御し、南に向かい着御す。水
  火前行し同間に入りをはんぬ。五菓(栗・柿・甘子・棗・盛高月一本、木を以てこれ
  を造り、鶴松を図す。折敷兼ねてこれに置く)・酒盃(片口銚子に入れ、折敷の上に
  置く。銚子は蓋を覆う)を供う。次いで忠尚階の陰に於いて禄(生単重)を賜う。木
  工権の頭仲能これを取る。次いで椀飯の儀有り。相州・武州西侍に出で給う。また吉
  書を覧玉う。武州これを持参し給う(覧筥蓋に納む。信濃次郎左衛門の尉これを伝う)。
  事終わり退出せしむ。今日の供奉人、
  前駆
    木工権の頭仲能    前の民部権の少輔親實
    備中左近大夫     前の美作の守    右馬権の頭政村
  御劔の役人 相模権の守
  御調度懸け 安積六郎左衛門の尉
  御甲着け  長太右衛門の尉
  御後五位六位(布衣・下括り)
    遠江の守         民部権の少輔
    陸奥の太郎        北條の彌四郎
    足利の五郎        遠江の太郎
    駿河の前司        大膳権大夫
    長井左衛門大夫      毛利左近蔵人
    周防の前司        伊豆判官
    安藝右馬の助       佐渡の守
    宇都宮修理の亮      町野加賀の前司
    大和の守         上総の介
    河越掃部の助       筑後図書の助
    豊前大炊の助       上野七郎左衛門の尉
    同五郎          薬師寺左衛門の尉
    淡路左衛門の尉      後藤次郎左衛門の尉
    同四郎左衛門の尉     関左衛門の尉
    下河邊左衛門の尉     宇都宮四郎左衛門の尉
    笠間左衛門の尉      佐原新左衛門の尉
    伊東左衛門の尉      大曽祢太郎兵衛の尉
    同次郎兵衛の尉      信濃次郎左衛門の尉
    同三郎左衛門の尉     隠岐四郎左衛門の尉
    籐四郎左衛門の尉     梶原右衛門の尉
    近江三郎左衛門の尉    葛西壱岐左衛門の尉
    加地八郎左衛門の尉    宇佐美籐内左衛門の尉
    河津八郎左衛門の尉    武藤左衛門の尉
    摂津左衛門の尉      出羽四郎左衛門の尉
    加藤次郎左衛門の尉    紀伊次郎兵衛の尉
    廣澤三郎兵衛の尉     小野寺四郎左衛門の尉
    平賀三郎兵衛の尉     狩野五郎左衛門の尉
    春日部左衛門の尉     相馬左衛門の尉
    宮内左衛門の尉      彌善太左衛門の尉
    駿河の次郎
  直垂
    駿河四郎左衛門の尉    同又太郎左衛門の尉
    上総の介太郎       大須賀次郎左衛門の尉
    大河戸太郎兵衛の尉    伊賀六郎左衛門の尉
    佐々木近江四郎左衛門の尉 波多野中務次郎
    内藤七郎左衛門の尉    江戸の八郎太郎
    宇田左衛門の尉      豊後四郎左衛門の尉
    長掃部左衛門の尉     渋谷の三郎
    南條七郎左衛門の尉    中野左衛門の尉
    平左衛門三郎       本間次郎左衛門の尉
    小河三郎兵衛の尉     飯富の源内
  検非違使
    駿河大夫判官     籐内大夫判官    遠山判官
 

8月5日 己丑
  匠作・武州参らる。新造の評定所に於いて評議始め有り。その衆皆参る。但し出羽の
  前司家長所労に依って参らず。先ず御勤仕の輩を定めらると。仍って御祈り始め有り。
  権の暦博士定昌河臨祓いを奉仕す。御移徙の後三箇日御祈りを始めらるるの條、先例
  覚悟せざるの由、内々傾け申すの族有りと雖も、御許容無し。酉の刻政所始め有り。
  匠作・武州参り給う。行然御馬(鞍を置く)・御劔等を両所に進すなりと。
 

8月6日 庚寅 天晴
  新造御所の御弓始めなり。匠作・武州以下人々布衣を着し庭上に候せらる。将軍家簾
  中に於いて御覧ず。周防の前司申次たり。
  同射手
   一番 駿河の次郎      佐々木四郎左衛門の尉
   二番 下河邊左衛門の尉   横溝の六郎
   三番 小笠原の六郎     藤澤の四郎
  今日、内法御祈り始めなり。功徳院僧正(快雅)奉仕するの上、鶴岡の別当・供僧等
  に仰せらると。また御湯殿始めの儀有りと。
 

8月7日 辛卯 [百錬抄]
  山門の衆徒諸堂を打ち付け、日吉の神輿山上に迎え奉ると。
 

8月9日 癸巳 天霽
  将軍家御移徙の後、御行始めの儀有り。武州の第に入御す。御直衣・御車なり。供奉
  人去る四日に同じ。但し廷尉光行・随兵最末に在りと。
  随兵十二人
   北條の彌四郎        上野七郎左衛門の尉
   足利の五郎         河越掃部の助
   近江三郎左衛門の尉     葛西壱岐左衛門の尉
   河津八郎左衛門の尉     宇佐美籐内左衛門の尉
   梶原右衛門の尉       相馬左衛門の尉
   三浦駿河の次郎       武田の六郎
 

8月15日 己亥
  鶴岡放生会、将軍家御出で。法会・舞楽恒の如し。
 

8月16日 庚子
  将軍家同上下宮に御奉幣。その後流鏑馬以下、馬場の儀有り。廷尉定員埒の門の辺(子
  息定範を具す)に候す。
 

8月20日 甲辰
  南都の衆徒復蜂起の由飛脚到来するの間、これを相鎮めんが為、佐渡の守基綱上洛の
  使節の事を奉る。仍って今日出門す。明暁進発すべしと。
 

8月25日 己酉
  寅の刻、前の出羽の守従五位下藤原朝臣家長卒す(年七十二)。
 

8月30日 甲寅
  新造の御所に於いて恩沢の沙汰有り。大膳権大夫師員これを奉行す。