1237年 (嘉禎3年 丁酉)
 
 

4月5日 丙戌
  二位家御菩提の為、精舎の供養を営まるるの間、布施取り以下の事評議を経らる。関
  東祇候の雲客・諸大夫等、当時在京分は参向たるべきの由仰せ遣わさる。伊賀六郎左
  衛門の尉光重奉行たりと。
 

4月7日 戊子 晴
  酉の刻地震。大倉の御堂地これを曳き始めらる。主計の頭・駿河の前司等参向し沙汰
  を致す。
 

4月8日 己丑 霽
  戌の刻大倉の御堂地に於いて、泰貞朝臣土公祭を勤む。陰陽師五人を結番せらる。造
  畢日に至るまで連日勤行の由、政所に仰せらると。
 

4月11日 壬辰
  入道相模三郎資時主(法名真佛)評定衆に加えらると。
 

4月17日 戊戌
  番匠大工大夫長宗召しに依って京都より参着すと。
 

4月19日 庚子 晴
  大倉新御堂の上棟なり。将軍家(御布衣・御車)監臨せしめ給う。近江四郎左衛門の
  尉氏信御劔を役す。本間式部の丞元忠御調度を懸く。修理大夫・左京権大夫以下供奉
  す。大工散位長宗(束帯)引頭(束帯)を相具し参上す。事終わり禄物等の沙汰有り。
  大工分は束帯一具(平裹に納む)・被物五十・物十・馬二疋(一疋鞍を置く)。引頭
  五人分は各々被物三五・物五・馬一疋(黒漆鞍を置く)。小工等の分は被物一三・物
  三・馬一疋(鞍を置く)。檜皮葺き大工分は被物三五・物五・馬一疋(鞍を置く)等
  なり。還御の次いでを以て、左馬の頭義氏朝臣の家に入御す。御遊び一に非ず。結句
  御酒宴の間、駿河の次郎泰村・壱岐の守光村兄弟相撲師に召し決す。御入興第一なり。
  諸人また目を悦ばしむ。左京兆申されて云く、左金吾将軍の御時、和田新左衛門の尉
  ・朝夷名の三郎等召し合わさるると雖も、勝負の儀無しと。仍って雌雄を決すに及ば
  ずと。その後御引出物有り。
  役人
   御劔  丹後の守泰氏
   御調度 足利の五郎
   御甲  駿河四郎左衛門の尉 同五郎左衛門の尉
   南廷  壱岐の守
   一の御馬(鴾毛、鞍を置く) 畠山の三郎 日記の五郎
   二の御馬(黒)       新田の太郎 大平の太郎
  夜に入り還御す。随兵十騎御車の前に列す。
    駿河の次郎   梶原右衛門の尉 河越掃部の助    宮内左衛門の尉
    小笠原の六郎  千葉の八郎   上野七郎左衛門の尉 近江四郎左衛門の尉
    遠江式部大夫  越後の太郎
 

4月22日 癸卯 天晴
  申の刻日色赤く蝕の如し。今日、将軍家左京権大夫の亭に入御す。この御料の為御所
  (檜皮葺き)を新造せらるるの間、渡御始めなり。御儲け事毎に過差すと。御出の儀
  また殊に刷わる。供奉人清選す。各々行粧殊に花を折ると。
  供奉人
    右馬権の頭      北條大夫将監     前の民部少輔
    遠江式部大夫     宮内少輔       陸奥の太郎
    遠江の三郎      足利の五郎      長井左衛門大夫
    主計の頭       毛利蔵人       駿河の前司
    佐渡の前司      駿河の次郎      壱岐の守
    宇都宮修理の亮    河越掃部の助     和泉の前司
    摂津民部大夫     隠岐式部大夫     小山五郎左衛門の尉
    淡路四郎左衛門の尉  上野七郎左衛門の尉  関左衛門の尉
    佐渡帯刀左衛門の尉  宇佐美與一左衛門の尉 武藤左衛門の尉
    加藤左衛門の尉    伊東三郎左衛門の尉  肥前四郎左衛門の尉
    宮内左衛門の尉    大見左衛門の尉    大曾禰兵衛の尉
    近江四郎左衛門の尉  河津八郎左衛門の尉  和泉次郎左衛門の尉
    宇都宮四郎左衛門の尉 出羽四郎左衛門の尉  信濃三郎左衛門の尉
    内藤七郎左衛門の尉  宗宮内左衛門の尉   安積六郎左衛門の尉
    豊後四郎左衛門の尉  彌次郎左衛門の尉   梶原右衛門の尉
    和泉新左衛門の尉   壱岐小三郎左衛門の尉 駿河四郎左衛門の尉
    三浦又太郎左衛門の尉
  寝殿南面に於いて御酒宴。夜に入り左京兆孫子の小童(字戎寿、故修理の亮時氏二男)
  御前に於いて元服の儀有り。先ず城の太郎義景・大曾禰兵衛の尉長泰等雑具を持参す。
  次いで駿河の前司義村理髪に候す。次いで御加冠。次いで御引出物を進せらる。
  役人
   御劔  右馬権の頭政村
   御調度 北條大夫将監経時
   御行騰 小山五郎左衛門の尉長村
   御甲  駿河の次郎泰村 同四郎左衛門の尉家村
   南廷  長井左衛門大夫泰秀
   一の御馬(黒鹿毛、鞍を置く)駿河五郎左衛門の尉資村 同八郎胤村
   二の御馬(瓦毛)      相模の六郎時定     平左衛門三郎盛時
  次いで駿河の前司御引出物を賜う。
   御劔 後藤佐渡の前司基綱
   御馬(栗毛糟毛、鞍を置く) 南條七郎左衛門の尉時貞 同兵衛次郎経忠
  次いで将軍より、新冠(五郎時頼と号す)御引出物を賜わる
   御劔  宮内少輔泰氏
   御調度 遠江式部大夫光時
   御甲  上野七郎左衛門の尉朝度 同三郎重光
   御馬(黒、鞍を置く)    近江四郎左衛門の尉氏信 同左衛門太郎長綱
 

4月23日 甲辰 天晴
  日中還御す。その期に臨み、右京兆また御引出物を進せらる。今日午の二点より酉の
  三点に至り、日色蝕の如し。将軍家大いに驚き思し食さる。司天の輩を召し、御寝御
  所の東御壺に於いて、直に御尋ね有り。泰貞・晴賢・廣経・晴貞・資俊等の朝臣申し
  て云く、普通に非ずと雖も、雲霞引き掩い去る時は、西山に傾く日の色赤く此の如し。
  強ち変異に処すべからず。但し旱魃の兆し表すかと。宣賢申して云く、何れの年も春
  無からん。何れの春も霞無からん。もし霞に映ぜられば年々この変有るべきか。則ち
  建久薄蝕に定めらるるの間、仁王会の呪願文に載せらると。同夜丑の刻月光黄色なり
  と。

[百錬抄]
  石清水行幸なり。皇后同輿。摂政騎馬。
 

4月24日 乙巳 霽
  昨日の日光の事、親職朝臣薄蝕の勘文を奉らしむ。天変に非ざるの由申す輩これ多し。