1237年 (嘉禎3年 丁酉)
 
 

3月5日 丙辰 [玉蘂]
  左府来られる。東向の出居に於いてこれに謁す。摂政を譲るべきの由これを示す。驚
  きの気有り。前の関白(家實)に申し合わすべしと。即ち堀川に向かい、幾程を経ず
  帰り来たる。この仰せ迷惑して是非に能わず。ただ仰せに随うべしと。茲に主尚沙汰
  有るべし。然らざれば恐れ有り。殆ど固辞すべきものなり。この次いでに条々示し合
  わさるる事有り。この事愚案一に非ず。去年より大明神に祈請す。関東重任を遁るべ
  きなり。具記に遑あらず。良久しくして帰らる。
 

3月6日 丁巳
  晩景小雨灌ぐ。雷鳴数声。
 

3月8日 己未 天霽、夜に入り甚雨
  今日主計の頭師員の奉行として、近習番並びに御身固めの陰陽師の員を定めらる。
  一番 遠江式部の丞    周防の前司     前の民部少輔
     隠岐式部大夫    上野の弥四郎    平賀三郎兵衛の尉
  二番 壱岐の守      摂津民部大夫    武藤左衛門の尉
     後藤佐渡左衛門の尉 伊賀六郎左衛門の尉 伊佐右衛門の尉
  三番 相模の六郎     佐原太郎左衛門の尉 江右衛門の尉
     齋藤左衛門の尉   本間式部の丞    飯富の源内
  御身固めの事
  一番 前の大蔵権大夫泰貞朝臣
  二番 陰陽権の助晴賢朝臣
  三番 前の縫殿の頭文元朝臣
 

3月9日 庚申 甚雨沃すが如し。終日休止せず
  亥の刻洪水。今夜新御所に始めて和歌御会有り。庚申を守らるるなり。題は桜花盛久、
  花亭祝言(左兵衛の督頼氏朝臣これを献る)。左京兆・足利左典厩・相模三郎入道・
  快雅僧正・式部大夫入道・源式部大夫・佐渡の守・城の太郎・都筑右衛門の尉経景・
  波多野の次郎朝定等その座に候す。
 

3月10日 辛酉
  明王院の東に丈六堂を新造せらるべき事、今日その沙汰有り。これ今年故禅定二位家
  十三年の御忌景に相当たるの間、御追善の為なり。佐渡の守基綱・摂津民部大夫為光
  奉行せしむべきの旨仰せ下さる。仍って各々陰陽道を召す。勘文は泰貞・晴賢・文元
  等これを献ると。

[玉蘂]
  この日予摂政の辞表を奉る。(略)詔書宣下の後、摂政拝賀。先ず参内せらる。この
  次いでに皇后宮に申し、次いで予の亭に来たるなり。父子に非ざるの摂政、他所に来
  るの例希有なり。延久二年大二條太政大臣(教通)、宇治殿(頼通)に参らしめ給う。
  彼の例に追うと。
 

3月21日 壬申
  京都警衛の事、去々年正月より更に結番せらるるの処、猶不法の輩相交るに依って、
  匠作・左京兆殊にこれを沙汰せしめ給い、御家人等を催せらると。
 

3月25日 丙子
  新造の精舎を供養せらるべきの日時以下の事、今日その沙汰有り。六月三日・十一日
  ・十五日・十八日等たるべきの旨、陰陽道の勘文に載すと雖も、作事半ばして未だ功
  を成さず。日数迫りをはんぬ。延引し給うべきの由仰せ出さると。
 

3月26日 丁丑
  天変の御祈り等これを行わる。
 

3月30日 辛巳
  御堂供養延引の事等評儀に及ぶ。陰陽道の勘文を召す。六月二十三日たるべきの由、
  親職・泰貞・廣経・晴賢・資俊等、連署の勘文を献ると。