1238年 (嘉禎4年、11月23日 改元 暦仁元年 戊戌)年
 
 

9月1日 癸酉 雨降る
  左京兆の御亭に於いて、七箇夜の大土公祭を始行せらる。今夜泰貞朝臣これを奉仕す。
  清基・家氏・晴茂・国継・親職等の朝臣これを結番せらると。
 

9月8日 庚辰 [百錬抄]
  初斎宮東河(冷泉末)に禊ぎ。左近府に入御す。
 

9月9日 辛巳
  寅の刻太白大微の右執法星を犯す。同時に螢惑軒轅を犯す。戌の刻月歳星を犯す(相
  去ること一尺の所)。また亥の刻より丑の時まで、流星或いは七八尺或いは三四尺、
  その員を知らず。色白赤。今日齋藤兵衛入道浄圓の奉行として、地頭の間の事、沙汰
  を経らるるの條々有り。所謂本司の跡と云い新補と云い、率法両様を混乱すべからざ
  るの由下知するの処、叙用せず、違犯に於いては、その所を改易し、勲功未給の輩に
  宛て行わるべし。次いで地頭に補せしむの輩、或いは先例に背き、或いは父祖の例に
  違うの由訴訟の時、御下知に従わざれば、先ずその所を召し、宮仕忠労の輩並びに所
  知替えに宛て行うべし。次いで御祈り勤仕の人々の跡の事、先條の如きの子細有らば、
  その所を召し他人に宛て給うべしと。
 

9月11日 癸未
  山城の国中庄園・郷・保の悪党等の事、殊に禁遏すべきの由沙汰有りと。
 

9月13日 乙酉
  今夜明月霽を得る。左京兆先年御在京の時、対面せしめ給うの人有り。御懇志今に等
  閑ならず。月興を以て媒と為し、一首の御歌を遣わさる。
   みやこにていまもかはらぬ月影にむかしの秋をうつしてそみる
 

9月18日 庚寅 霽
  子の刻殿下の北政所御流産(姫君)。七箇月と。
 

9月19日 辛卯 晴
  右馬権の頭(政村)将軍家の御使として殿下に参らる。去る夜の御事を訪い申せしめ
  給うに依ってなり。
 

9月20日 壬辰
  賀茂別雷社領近江の国安曇河御厨内藤江村の事、使の入部を止むべきの由、守護人近
  江入道虚仮に仰せらる。これ敬神の他に異なるに依ってなり。
 

9月22日 甲午 霽
  初齋宮野宮に入らしめ御うと。

[百錬抄]
  初斎宮東河(一條末)に禊ぎ。野宮に入御す。月中両度の禊ぎ、天禄の例なり。
 

9月24日 丙申 晴
  弁僧正定豪入滅す。去年東寺長者に補す。幾旬月を経ずと。これ民部権の少輔源延俊
  の男、兼豪法印の入室灌頂の弟子なり。
 

9月27日 己亥 霽
  御家人任官の事、所望の輩、成功を減納せしむべきの由相議するの旨その聞こえ有る
  に就いて、今日沙汰を経られ、停止すべしと。凡そ成功の官職の外、御挙有るべから
  ざるの趣定めらると。御在洛の次いでに、官位を望み申すの族これ多し。また御吹挙
  有り。仍って向後の法を固めんが為この評定に及ぶ。詮勾勘者は相模三郎入道眞昭な
  り。