1238年 (嘉禎4年、11月23日 改元 暦仁元年 戊戌)年
 
 

10月3日 甲辰 陰晴、夜に入り甚雨
  今日鞍馬寺上棟。将軍家御奉加有り。馬三疋・御劔・砂金等なり。河越掃部の助御使
  たりと。今夜北白河院(禁裏御母)御頓死と。日来脚気の御労と。

[百錬抄]
  鞍馬寺上棟なり。北白河院崩御(御年六十六)。
 

10月4日 乙巳 雨下る
  松殿禅定殿下(師家)天王寺に於いて薨すと。今日、南都の住侶武蔵得業隆圓東大寺
  別院、件の寺の別当職に補す。これ去々年南京の衆徒蜂起騒動の時、忠節を関東に竭
  すの間、勧賞を行わるべきの旨、兼日御約諾有るに依ってなり。当寺前の別当頼暁得
  業は、承久兵乱の張本秀康の子息を隠し置き、剰え山辺庄を掠領す。その過すでに重
  疉す。改替せらるべきの由、東大寺別当僧上坊に触れ仰せらるるの処、件の寺は、頼
  暁別して相伝を為す。本所の成敗に非ず。その身の咎に依って没収せらるるに於いて
  は、直に御沙汰有るべきの旨報じ申さるるに就いて、この御計に及ぶと。
 

10月7日 戊申
  松殿薨じ給う事、前の武州遺跡を訪い申せしめ給う。小野澤左近大夫仲實御使たりと。
 

10月9日 庚戌 晴
  亥の刻女院北白河殿に葬り奉ると。
 

10月11日 壬子
  丹後の国曽我部庄は、後白河院法華堂領たるに依って、地頭を補せられず。仍って守
  護使の入部を停止すべし。夜討ち以下の事出来するの時は、庄家犯否を糺明し、その
  身を召し渡すべきの旨、今日施行せらる。前の武蔵の守・故右幕下の御遺命、殊に彼
  の法華堂の事を重んぜらるるの間、これを申し行わしめ給うと。
 

10月12日 癸丑
  将軍家御参内(御直衣・八葉車)。左馬権の頭盛長・刑部少輔家盛等供奉す。後車は
  親季朝臣なり。その後一條・今出河の両御亭に渡御す。明日関東に御下向有るべきが
  故なり。一條殿に於いて御贈物繁多なり。拾遺納言(行成卿)真筆の古今和歌集、雅
  忠朝臣相伝の医書等その内に在りと。今日、畿内西国中の庄園・郷・保の住人好んで
  強竊・博奕・刃傷・殺害を以て業と為す輩の事、神社・仏寺・権門・勢家領を嫌わず、
  相触れずその身を召し取り、且つは在所を注進すべきの由、守護人等に仰せ含めらる
  と。
 

10月13日 甲寅 天霽
  寅の一点将軍家関東御下向の御進発なり。護持僧は岡崎僧正成源、医師は良基・時長
  等の朝臣なり。陰陽師は泰貞・晴賢等の朝臣、また陰陽の頭維範朝臣これを召し具せ
  らる。忠尚・季尚・在直等の朝臣御身固めに候す。前後陣の供奉人・随兵等御入洛の
  時に同じ。但し各々行粧の花美前儀に軼ぐ。大相国禅閤四宮河原に於いて御見物。堀
  河大納言(具實卿)大津浦に於いて車を立てらる。その外卿相雲客の車勝計うべから
  ず。凡そ見物の緇素面を以て墻と為す。酉の刻小脇の駅に着御す。近江入道虚仮御所
  を立て入れ奉る。御儲けの結構比類無しと。
 

10月14日 乙卯 晴
  匠作・前の武州旅の御所に参らしめ給う。然るべき宿老多く以て小侍に着座す。杯酌
  数献に及ぶ。佐野木工の助俊職等陪膳に候す。虚仮御引出物を献ると。巳の刻出御す。
  未以後雨降る。酉の斜め箕浦御宿。
 

10月15日 丙辰 晴 未の刻垂井御宿。

10月16日 丁巳 晴 申の刻小隈御宿。

10月17日 戊午 霽 萱津
 

10月18日 己未 霽
  熱田社の御奉幣有り。酉の一点矢作の宿の辺左馬の頭義氏朝臣の亭に入御す。
 

10月19日 庚申 夜に入り雨下る
  戌の一刻豊河の駅に着御す。
 

10月20日 辛酉 風雨
  辰の刻出御す。本野原に於いて甚雨暴風。然れども御輿前後の人々は笠を擁すに及ば
  ず。皆以て鼻を舐る。午の刻以後晴に属く。酉の刻橋本御宿。
 

10月21日 壬戌 霽 池田

10月22日 癸亥 晴 未の刻懸河

10月23日 甲子 晴 申の刻嶋田

10月24日 乙丑 晴 手越

10月25日 丙寅 霽 蒲原の宿に御逗留。聊か御不例に依ってなり。

10月26日 丁卯 晴 未の刻車返の牧御宿。

10月27日 戊辰 霽 鮎澤、竹下御宿。

10月28日 己巳 晴 酒匂の駅、濱部御所

10月29日 庚午 寅の刻小雨、巳の三点晴に属く
  酉の一刻鎌倉御所に着御す。