1239年 (暦仁2年、2月7日 改元 延應元年 己亥)
 
 

4月13日 壬子
  今日評議を経られ、六波羅に仰せらるる條々有り。
  一、僧徒兵仗禁制の事
    度々綸旨を下されをはんぬ。猶自由の濫吹を為さば、法に任せ行うべしてえり。
  一、近年四一半徒党興盛の事
    京中に於いては、別当に申し、保管人に仰せその家を破却すべし。辺土に至りて
    は、本所に申し、停止せらるべし。凡そ召し禁しめらるに随い、その身を申し給
    い、関東に下し進せしむべしてえり。
  一、召し置く所の京都犯人の事
    大番衆並びに下向人の便宜に付け関東に下すべしてえり。
  一、武士召し取る犯人の住宅の事
    大理に触れ申し、保管人の沙汰たるべし。片土に於いては、本所の計たるべして
    えり。
  一、篝屋に於いて打留物具の事
    その守護人に充て行わるべしてえり。
  一、諸社の神人等在京の武士の宿所に付け或いは神宝を振り或いは狼藉を致す事
    傍輩を懲らさんが為、張本を関東に召し下さるべしてえり。
     以上事書此の如し。文章に相加え、御教書に載せらると。
 

4月14日 癸丑
  信濃民部大夫入道・大和の前司・山城の前司・甲斐の前司・太田民部大夫・内記太郎
  等の奉行として、條々の制符を下さる。
  一、関東の御家人京都に申す傍官・所領・上司に望み補す事
  一、惣地頭所領内の名主職を押妨する事
  一、官爵所望の輩関東御一行に申請する事
  一、鎌倉中の僧徒恣に官位を諍う事
     以上停止すべしてえり。
  一、勾引人並びに人倫を売買する輩を搦め禁しむべき事
    嘉禄元年十月二十九日の宣旨を守り、その沙汰有るべしてえり。
  一、奴婢雑人の事(生む所の男女に付く事)
    寛喜三年餓死の比、飢人として出来するの輩に於いては、養育の功労に就いて、
    主人の計たるべきの由定め置かれをはんぬ。その時の減直の法に就いて、糺返せ
    らるべきの旨沙汰出来するの條、甚だその謂われ無し。但し両方和與せしめ、当
    時の直法を以て糺返に至らば、沙汰の限りに非ずてえり。
 

4月15日 甲寅 天晴
  月蝕正現せず。御祈り助僧正厳海、宿曜道助法印珍譽なり。蝕現れるや否や相論有り。
  一方聊か虧けるの由申せしむの人有り。また全く虧けること無く、他州の蝕尽きるの
  旨その説有りと。
 

4月16日 乙卯
  辰の刻小地震。
 

4月23日 壬戌 天霽
  戌の刻乾方妖気有り。光芒巽を指す。長八尺・広一尺・色白赤。本星無しと雖も、そ
  の光天に映え野火の如し。御所中の上下これを見怪しむ。一時を経て消えをはんぬ
 

4月24日 癸亥 天晴
  辰の一点司天の輩を召し、去る夜の奇雲の事尋ね問わる。維範・晴賢等の朝臣窺い見
  ざるの由これを申す。承和・元暦の彗星は、本星無く須臾して消えると。今度は分明
  窺うべき旨仰せ付けらると。今日評定有り。諸社の神人狼藉の事、本所に相触ると雖
  も事行わざるの由、六波羅これを申さる。仍って沙汰を経られ、遁れる所無くばその
  身を関東に召し下すべし。凡そ三ヶ度相触るの後叙用せざるに於いては、注し申せし
  むべし。他事に依って訴訟出来すと雖も、永く沙汰有るべからざるの旨、相模の守・
  越後の守の許に仰せ遣わさると。
 

4月25日 甲子 天晴
  未の刻前の武州俄に御違例。戌の刻以後御心神殊に違乱すと。諸人群参す。織部の正
  光重将軍の御使として参入す。時に匠作の御亭(前の武州向顔)酒宴乱舞の折節なり。
  前の武州御病脳の由、告げ申すの輩有りと雖も、匠作敢えてその事を停止せられず。
  また使者を進せられざるの間、宿老の祇候人等これを諍い申す。匠作曰く、予の遊戯
  歓楽の如きは、武州御在世の程なり。彼の不例白地の事に似たりと雖も、もし大事に
  及わば、何の仁恵を恃み猶世を越すべきや。永く隠遁せしめ、更に興宴を好むべから
  ず。且つは最末の儀を存ずるに依って、この座を避けず。諷諫の仁還って感涙を催す
  と。
 

4月26日 乙丑 晴、寅の刻以後雨降る
  先の妖気出見す。軸星の有無、司天の相論に及ぶと。今日、前の武州不例の御事未だ
  復本心えずと。