1239年 (暦仁2年、2月7日 改元 延應元年 己亥)
 
 

3月5日 乙亥 天霽
  京都去る月十一日巳の刻日暈の変有り。密奏の輩の申状不同の間、両度勘文を召すの
  上、菅大蔵卿為長、清大外記頼尚等勘状に及ぶ。その状等今日到来す。御前に於いて
  師員朝臣これを読み申す。天文道忠尚・良光・季尚等の朝臣重暈の由を申す。家氏交
  暈の旨を申す。晴継白虹日を貫くの由を申すと。大蔵卿後漢書の文を引き郎キの詞を
  仮り、暈則ち虹なり。大略白虹の旨、委細これを勘ず。大外記は、暈虹先例の本文を
  勘じ進すばかりなり。
 

3月11日 辛巳
  内匠の頭経長京都より参着すと。
 

3月15日 乙酉 晴
  司天の輩召しに依って皆参る。二月十一日天変の事、京都の勘文を下さる。各々存知
  の旨を申すべきの由仰せ出さる。維範・泰貞・晴賢等一同重暈の由を申す。師員朝臣
  申して云く、晴継朝臣の勘文白虹の旨を載す。尤も甘心す。本文分明なりと。
 

3月17日 丁亥 晴
  六波羅の使者参着す。去る二月二十二日、隠岐の法皇遠嶋に於いて崩御す(春秋六十)。
  同二十五日葬り奉ると。
 

3月29日 己亥
  匠作・前の武州評定所に着し給う。評定衆等参進す。筥根山別当興實と智蔵三郎法橋
  良實と対決を遂ぐ。これ当山二月経会の時、興實桟敷を職衆の座前に構う。職衆これ
  を欝陶し、良實を以て張本と為し、彼の大会を打ち止むが故なり。両方その過を遁れ
  難きに依って、興實は花河戸橋を亘し、良實は廻廊二十二ヶ間の檜皮を葺くべきの由
  仰せ付けらると。