3月6日 庚午 天晴
京都の使者参る。去る二月二十二日法性寺禅定殿下の姫君(将軍家妹)尚侍(御名伶
子)たるの由と。
3月7日 辛未 天晴
未の刻将軍家若君御五十日百日なり。寝殿南面に於いてその儀有り。前の武州(布衣)
西侍北の座に着き給う。御家人数輩参候す。時刻に政所より餅以下の御前物を進す。
西侍北縁に舁き居ゆ。信濃民部大夫行泰(布衣)奉行たり。北條大夫将監経時(布衣)
陪膳に候せらる。前の隼人の正光重(布衣)・前の山城の守元忠(布衣)同侍北の遺
戸に入り、廊根の妻戸を経て簾外に持参す。親衛これを取り御前に置かる。その後御
劔・砂金等を進せらる。
役人
将軍家御方
御劔 遠江の守朝時 砂金 右馬権の頭政村
若君御方
御劔 右馬の助光時 砂金 民部大夫時章
御馬一疋(鞍を置く)上野弥四郎右衛門の尉時光 同五郎兵衛の尉重光
次いで侍所に於いて盃酌等有り。凡そ今日の事悉く以て前の武州の御沙汰なり。盛綱
・景氏等これを奉行す。
3月9日 癸酉 天晴
政所造畢の間、今日吉書始めの儀有り。前の武州(布衣、以下これに同じ)参り給う。
評定衆前の摂津の守師員・蔵人大夫入道西阿以下参上す。また御所に於いて尊勝陀羅
尼書写供養有り。導師は岡崎僧正(成源)。
3月12日 丙子
当番故無く不事の輩五人出仕を止めらる。所謂宇都宮五郎左衛門の尉・廣澤三郎兵衛
の尉・塩谷四郎兵衛の尉・結城上野の十郎・海老名左衛門の尉等なり。陸奥掃部の助
これを奉行す。
3月15日 己卯 [百錬抄]
公卿勅使進発す(権大納言公相卿)。供奉人等の行粧錦繍を裁ち威超々す。
3月17日 辛巳
京都の使者参着す。去る七日尚侍御入内と。
[百錬抄]
入道太政大臣(良平)播州に於いて薨ず。年五十七。
3月18日 壬午
関東の御家人並びに鎌倉祇候の人々、万事過差を停止し倹約を好むべき條々の事、日
来沙汰有り。今日その制符を造らる。来四月一日より、固くこれを禁制すべしと。ま
た御家人の郎等任官の事、向後は停止せらるる所なり。これに依って関東家人の由称
し申さば、主人を糺明し、□□□重時に相触れ申し任ぜらるべきの趣、兼日宮蔵人方
以下の公事奉行人に示し置かるべきの旨、六波羅に仰せ遣わさる。