1240年 (延應2年、7月16日 改元 仁治元年 庚子)
 
 

4月1日 乙未
  新制の條々の事、今日以後固く御旨を守るべきの由仰せ下さる。もし猶叙用せざれば、
  見及ぶに随い、且つは法に任せ罪科に行わるべしと。今日京都の使者参る。去る月十
  五日大相国(良平)薨じ給う(五十六)の由これを申す。将軍家御伯父なり。
 

4月3日 癸酉 [百錬抄]
  梅宮祭なり。夜に入り摂政直廬に於いて群議有り。高麗国牒状の事なり。
 

4月6日 庚子 天晴 [平戸記]
  去る夜除目の事、以て遅々すか。聞書今朝披露せず。酉の刻ばかりに到来す。
   辞退 右馬権頭平政村
 

4月8日 壬寅
  子の刻前の武州の御亭の御厩侍鵺鳴く。
 

4月9日 癸卯 天霽
  鵺の恠異に依って、前の武州公文所に於いて、百怪祭を行わる。
 

4月10日 甲辰 天晴
  若君の御方御祈衆を定めらる。岡崎僧正(成源)・助僧正(厳海)・助法印(珍譽)。
  陰陽師は一番泰貞、二番晴賢、三番国継等なり。兵庫の頭定員奉行としてこれを結番
  せしむ。
 

4月12日 丙午
  故匠作遺領の事、未だ死去分からざるの間、去々年十二月二十三日の惣目録に任せ、
  子息等に支配せらる。また若狭の前司泰村・河内の前司光村・左衛門の尉家村・資村
  ・胤村・重村等、亡父義村の遺跡安堵の御下文を賜う。進物等有り。兄弟各々御所並
  びに前の武州の御方に列参すと。
 

4月14日 戊申 天晴
  子の刻月蝕、皆虧正現す。
 

4月18日 壬子
  未の刻地震。
 

4月25日 己未 天晴
  評定時の退座の分限を定めらる。所謂祖父母・養父母・養子孫・相舅・伯叔父・甥・
  従父兄弟・小舅夫妻・烏帽子子・聟等なり。
 

4月27日 辛酉
  将軍家御祈りの為七座の泰山府君祭を行わる。泰貞・晴賢・国継・晴貞・廣資・以平
  ・文元等奉仕す。これ兵庫の頭定員夢想の告げ有るに依ってこれを申し行うと。