1244年 (寛元2年 甲辰)
 
 

12月1日 丁卯 天晴
  卯の刻地震。
 

12月7日 癸酉 天霽
  新将軍御読書始めなり。午の刻常御所東面に出御す。武州これを扶持し奉らる。筑後
  の守正光朝臣(布衣)御侍読たるなり。北條左親衛以下人々出仕すと。
 

12月8日 甲戌 天晴、風静まる
  今日大納言家の乙若君御前、御着袴並びに魚味せしめ給う。申の刻寝殿に於いてその
  儀有り。人々布衣(下括り)を着し参集す。武州椀飯を献らる。宛も元三の如し。武
  州御腰を結び奉らる。また大殿これを食せしめ給う。彼此陪膳北條左親衛これに候す
  と。両事訖わり御引出物を進す。
  大殿の御方
   御劔        越後の守
   一の御馬(鞍を置く)小山の四郎     同五郎
   二の御馬(同)   大隅太郎左衛門の尉 同次郎
  将軍家の御方
   御劔                陸奥掃部の助
   一の御馬(鞍を置く)佐原肥前太郎左衛門の尉 同四郎左衛門の尉
   二の御馬(同)   弾正左衛門の尉     同十郎
  若君の御方
   御馬(鞍を置く)  甲斐の太郎
 

12月12日 戊寅
  御公事の間、各別に仰せ下されざるに於いては、父祖跡の知行、各々寄せ合い、分限
  に随いこれに勤仕すべし。またその跡に非ずと雖も、勲功に宛て行うの所領以下別の
  御恩地、相加え勤仕すべきの由と。
 

12月18日 甲申 天晴
  子の刻月歳星を犯すの由、司天等驚き申す。今日大殿の御方御祈り等を始行せらると。
 

12月20日 丙戌
  大膳大夫師員朝臣の奉行として、大友式部大夫頼泰申す蔵人の事その沙汰有り。而る
  に五位の記に止むべきの由挙げ申さるるの條、憚り有るの間、六位の子孫の時を以て
  これを申さるべし。自身は御上洛の時、京都に於いて御計有って、左右馬の助に任ぜ
  らるべきの由治定す。頼兼に仰せ含めらると。
 

12月24日 庚寅 天霽
  大殿の御祈り等重ねてこれを行わる。天変有るに依ってなり。
 

12月26日 壬辰 天晴
  卯の刻武州並びに北條左親衛等の第失火に依って災す。余焔飛行し、政所焼亡すと。
 

12月27日 癸巳 天霽
  今日の評定、大殿御上洛の事延引の御沙汰有り。これ日来思し食し立つに依って、明
  春二月九日必ず御進発有るべきの由治定しをはんぬ。而るに政所火事の間、御出立以
  下の御物等、悉く以て災火せしむが故なり。
 

12月30日 丙申 天晴
  今暁、歳星大微右執法上将星を入犯す(相去ること一寸の所と)。