1245年 (寛元3年 乙巳)
 
 

1月1日 丁酉 天晴、風烈し。深更に及び雷鳴
  今日の椀飯(武州沙汰)。
  進物の役人
   御劔  北條左近大夫将監
   御調度 能登の前司光村
   御行騰 三浦五郎左衛門の尉資村
 

1月9日 乙巳 天晴
  御弓始めの儀有り。
   一番 駿河の三郎    印東の次郎
   二番 工藤の八郎    横溝の七郎
   三番 井伊の介     小河左衛門の尉
   四番 眞板の次郎    棘の源太
   五番 小笠原の七郎   山内兵衛三郎
  今日評定有り。西国の諸社神職の輩、事を神威に寄せ人庶を煩わしむの由、連々その
  聞こえ有るに依って、相鎮むべきの趣六波羅に仰せ遣わす所なり。
  その状に云く、
   西国の神人押領使等を拒み、或いは平氏或いは甲乙人の所従を以て神人に補せしむ。
   ややもすれば寄せ沙汰を好み、大略領家・地頭の所務を管領せしめ、嗷々の沙汰を
   致すの由その聞こえ有り。事実ならば、所行の企て甚だ濫吹なり。本神人の外、新
   神人に於いては、本所に触れ申し早く停止せらるべきの由、度々仰せ下されをはん
   ぬ。所詮所存を相尋ねられんが為、その身を関東に召し下すべきの状、仰せに依っ
   て執達件の如し。
     寛元三年正月九日       武蔵の守
   謹上 相模の守殿
 

1月11日 丁未 陰
  戌の刻雷鳴両声。

[平戸記]
  今日出京せんと欲するの処、甚雨の間、隙を伺い猶予す。仍って晩に及び雨を凌ぎ帰
  洛す。途中に於いて雷大いに鳴り、雨脚いよいよ甚だし。電光自火殷なり。太だ怖畏
  有り。雷所々に落ちると。正月雷邂逅の事なり。前々必ず不快の事有るか。
 

1月15日 辛亥
  月蝕正見す。
 

1月16日 壬子 [平戸記]
  大蔵卿入り来たり、世事を談る。変異雷鳴の事その恐れ有るの由これを語る。また関
  東の火災説うべからずと。また大雪下ると。その深さ四尺と。希代の由武家これを称
  す。将軍有事の時前々必ず大雪下ること有りと。頼家卿の時は二尺、実朝公の時は三
  尺、今度四尺その例無し。その災殃定めて彼の時を超えるの由、各々以て存知ると。
  また正月雷鳴の事、頼朝卿事の時は八日なり。代々正月雷鳴の時、将軍災有りと。
 

1月17日 癸丑 降雨 [平戸記]
  今夜除目下名なり。
   近江権守藤資季(兼)、介藤頼嗣(兼)
 

1月18日 甲寅 天晴
  卯の刻地震。
 

1月19日 乙卯 晴 [平戸記]
  伝聞、関東除夜並びに元日雷鳴すと。元日雷落せしむと。また彼の元日その所の八幡
  宮(頼朝卿執務の時鎮座奉ると)の鳥居三基同時に顛倒すと。武士等恐れを抱くと。
 

1月20日 丙辰 天霽
  未の刻地震。今日京都の使者参着す。去る十三日将軍家近江の介を兼しめ給うと。
 

1月21日 丁巳 天霽
  巳の刻雷鳴。今日大納言家父祖代々の奉公の次第を注進すべきの旨、廣御出居衆に仰
  せ含めらると。
 

1月27日 癸亥 天晴
  丑の刻客星天市垣巽斗度に出現すと。
 

1月28日 甲子 天霽
  寅の刻客星猶牛宿の南に出現す。卯の刻前の陰陽大允晴茂朝臣勘文を進す。その後武
  州以下人々御所に参らる。天変の事を驚き申さるるが由なり。大殿廣御出居に於いて
  御対面有り。この間筑後左衛門次郎知定若狭の前司の座上に着す。仍って聊か喧嘩す
  と。

[平戸記]
  去る二十五日丑の刻客星出現すと。殊に驚き思し食す。(略)即ち御前に召し、仰せ
  られて云く、去る二十五日丑の刻ばかりに奇星出現す。良光朝臣一人これを見るか。
  但しその夜猶見定めの為忽ち申さずと。二十六日夜雨雪晴に属くの後、また現れ東方
  に在り。但し頗る辰巳方に寄ると。
 

1月29日 乙丑 天陰
  客星現れずと。